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岡山地方裁判所 昭和50年(わ)446号 判決

主文

被告人を懲役四年に処する。

未決勾留日数中六六〇日を右刑に算入する。

訴訟費用中、証人植村忠男、同木村敏郎、同姫井誠介、同小野田要夫、同利光昇に支給した分は被告人の負担とする。

昭和五〇年八月二九日付(小野田米男方における強盗殺人、現住建造物等放火の点)及び同年九月二七日付(大倉保正方に対する現住建造物等放火の点)起訴状記載の各公訴事実について、被告人はいずれも無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は角陣株式会社という名称を使い個人で魚介類の卸販売業を営んでいたものであるところ、

第一(一)  昭和四九年三月一八日ころ、東大阪市宝町一、八二八番地所在の千代田観光興業株式会社(以下千代田観光興業という)との間で、同社から冷凍えびを仕入れることとし、その第一回の引渡しを同年三月二三日頭金二〇〇万円の支払と引き換えに行う旨の売買契約を締結したが、同月二二日までに頭金二〇〇万円のうち七〇万円程度しか用意することができずその調達に苦慮していたところ、たまたま同月二三日午前四時四〇分ころ、被告人の実家である岡山市二日市町二五ないし二八番地所在の大倉保正方居宅兼工場が焼失したことを奇貨として、これに藉口して頭金二〇〇万円の焼失を装って頭金を支払うことなく冷凍えびの引き渡しを受けようと考え、同日午前一〇時ころ、岡山市二日市町一四番一号所在の岡山県漁業協同組合連合会(以下県漁連という)事務所において、引き渡しのため冷凍えび約三、五六八キログラム(価格五五五万八、四〇〇円相当)を持参してきた千代田観光興業社員利光昇に対し「今朝火事があって実家が焼け、そこに置いていた現金二〇〇万円も一緒に焼けたので払えない。後日必ず支払うので品物は置いていってほしい」旨虚構の事実を申し向け、同人をしてその旨誤信させ、よって即時同所において同人から右冷凍えびの引き渡しを受けてこれを騙取した。

(二)  続いて同年四月一七日ころ、千代田観光興業において、もはや冷凍えびの仕入代金につき確実に支払をする意思もなく、またそのあてもないのにあるように装い、同社社長植村忠男に対し「東京の金融業者から五〇〇万円借りられる。これで冷凍えびの代金を支払うので引き続いて冷凍えびを送ってほしい」旨虚構の事実を申し向け、同人をしてその旨誤信させ、よって同月一九日ころ、同人をして冷凍えび約三、七二〇キログラム(価格四九九万八〇〇円相当)を県漁連宛出荷させ、そのころ同所でこれを受取り騙取した。

第二  別紙犯罪事実一覧表記載のとおり、昭和四八年一二月一一日ころから昭和五〇年五月四日ころまでの間、前後一四回にわたり、岡山市京橋町七番二号小野田米男方ほか八ヶ所において、同人ほか八名所有または管理にかかる日本刀二振ほか二、一三五点(時価合計約三〇二万二四円相当)および現金約九四万五、五〇〇円を窃取した

ものである。

(証拠の標目)《省略》

(法令の適用)

被告人の判示第一の(一)、(二)の各所為はいずれも刑法二四六条一項に、同第二の各所為はいずれも刑法二三五条に各該当するところ、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により犯情の最も重い判示第一の(一)の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で、被告人を懲役四年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中六六〇日を右刑に算入し、訴訟費用中証人植村忠男、同木村敏郎、同姫井誠介、同小野田要夫、同利光昇に支給した分は、刑事訴訟法一八一条一項本文によりこれを被告人に負担させることとする。

(一部無罪の理由)

本件記録によると次の事実が認められる。

昭和五〇年五月一四日、被告人を被疑者とする判示第一の詐欺被疑事件について逮捕状が発せられ、同年七月三〇日午後一〇時二〇分ころ、岡山市内において右逮捕状によって被告人が逮捕され、同年八月一日同事実につき勾留状が発付・執行され併せて接見禁止の決定がなされ、同月九日勾留期間が延長されたのち同月二〇日同罪名で公訴提起された。

次に、小野田米男方における強盗殺人・現住建造物等放火被疑事件については、同年八月八日逮捕状が発付・執行され、同月一〇日同事実につき勾留状が発付・執行され、同月一九日勾留期間が延長されたのち同月二九日同罪名で公訴提起された。

さらに、同年九月五日、大倉保正方居宅等に対する現住建造物等放火並びに大倉栄に対する殺人被疑事件につき逮捕状が発付され翌六日執行され、同月八日同事実につき勾留状が発付・執行され併せて接見禁止の決定がなされ、同月一七日勾留期間が延長されたのち同月二七日現住建造物等放火のみの罪名で公訴提起された。そして最後に、右各事件につき被告人勾留中の同年一一月二九日判示第二記載の各窃盗につき公訴提起がされた。

なお、被告人とは弁護士(後記選任届提出後は弁護人)一井淳治が、次のとおり接見していることが認められる。

(1)昭和五〇年八月一日午後六時から同二八分まで、(2)同月六日午前九時三五分から同五五分まで、(3)同月一四日午前九時三五分から同五五分まで、(4)同年九月七日午前一〇時一五分から同二五分まで。

そして、被告人は右一井弁護士及び弁護士河田英正を右(2)の接見後弁護人に選任していたが、同年一〇月二三日新たに弁護士奥津亘、同佐々木斉を弁護人に選任し、同月二八日それまでの一井、河田両弁護人は辞任した。

ところで、被告人は逮捕当初右各被疑事件のうち窃盗関係については認める態度であったが、その他の各被疑事件は否認していたところ、昭和五〇年八月五日に至り、これらについても全面的に認める態度をとり、以来その後の捜査段階においていずれも一貫して全面的に自白する態度をとっていたのであるが、昭和五一年一月九日の第二回公判期日における起訴状に対する認否で、本件各公訴事実のうち窃盗について全部認める旨述べたが、詐欺の事実についてはその犯意を否認し、その余の事実についてはこれを全面的に否認し、その後一貫して右態度を維持したのみならず、進んで新しい事実を明らかにし、弁護人も被告人の右主張を前提として熱心かつ積極的な反証活動を行った。

当裁判所は、右のような訴訟の経過に応じて、適宜検証あるいは捜索、差押をするなどして、被告人に有利であるか否かを問わず、証拠の収集に努め、これらを子細に検討して事案の真相を把握しようとしたが、結局において本件公訴事実のうち、小野田方における強盗殺人、現住建造物等放火及び大倉保正方居宅等に対する現住建造物等放火については、いずれも被告人が真犯人であると断定するまでの確信を抱くまでには至らず、なお合理的な疑いを払拭できないとの結論に達した。

以下順を追って、その理由を説明する。

((以下説明の便宜上、引用の証拠につき9・25(前)検面―被告人の検察官に対する昭和五〇年九月二五日付(前綴分)供述調書、8・5(前)員面―被告人の司法警察員に対する昭和五〇年八月五日付(前綴分)供述調書、符1―当庁昭和五一年押第三二号符号1の証拠物、以下符の下位番号は同様証拠物の番号、検―検察官、員―司法警察員、査―司法巡査、検面、員面、査面―検察官、司法警察員、司法巡査に対する供述調書を、それぞれ示すものとし、証人または被告人の供述もしくは供述記載については、公判廷における供述と、公判調書中の供述記載部分または当該裁判所の尋問調書、受命裁判官の尋問調書とを特に区別せずに用いることもある。但し(第二回)―第二回公判期日と付加して表示することもある。))

その一、小野田米男方における強盗殺人、現住建造物等放火について

第一本件公訴事実

本件公訴事実は別紙公訴事実(一)のとおりである。

第二証拠によって認められる事実及び争点

当公判廷において取り調べた関係各証拠を総合すると、昭和四九年一一月六日午後四時過ぎころ、岡山市京橋町七番二号の金融業小野田米男方(木造二階建瓦葺住宅兼事務所(以下小野田方という)一階から出火し、同家一、二階がほぼ全焼したこと、焼跡の同家一階階下六畳間北東付近から小野田米男の妻征子(当時三六歳、以下征子という)の焼死体が発見されたこと、征子は白色前掛け、紺色毛糸セーター、エンジ色に黒柄のスカートを着用したまま、頭を南(内庭の方)に、足を北(表事務所土間の方)に向けてうつぶせの姿勢であったが、同女の左右後頭上部、同頭頂部等頭部に七か所の挫創、顔面に右眼内眥部の左上方及びその左方やや上方に挫創各一個(右顔面の各挫創は周囲に大母指頭大の皮下出血を伴い、鼻背の骨部に骨折あり)眉間上左側に紡状の挫創一個の傷があったこと、同女の死因は頭部挫創による失血死であり、死後焼かれたものであること、及び同家階下六畳、八畳、一〇畳、三畳の各室が何者かによって手当り次第に物色された形跡が歴然としていたことが明らかであり、右被害状況から見て、何者かが征子を殺害したのち、小野田方階下の各室を物色したうえで小野田方階下に放火したことを認めることができ、また検察官が本件において小野田方から強取されたと主張する宝石五点を被告人が所持し、そのうちの一点を、昭和五〇年三月二九日東京都中央区銀座一丁目九番一九号株式会社東洋美術館(以下東洋美術館という)に代金二五万円で売却し、その余の四点を、全部千葉市新宿二丁目所在新宿公園内の土中に埋蔵隠匿していたことが、それぞれ被告人の自供によって判明したことも証明十分であると思われる。

ところで、前記のように被告人は捜査段階において当初本件犯行を否認していたが、逮捕されてから六日後である昭和五〇年八月五日に至り概略を自供したのを始めとして、同年八月五日から九月三日までの間の司法警察員、検察官による取調において一貫して自白を維持し、その結果員面(8・5から8・30まで一八通)検面(8・22から9・3まで九通)が作成され、最終的には検察官の冒頭陳述にほぼ符合する供述調書が作成された。しかしながら被告人は第二回公判期日において「全く身に覚えのないことです」と述べて以来終始一貫して本件犯行を否認している。そして本件においては被告人と犯行を結びつける直接証拠としては、被告人の捜査段階における右員面一八通(8・5(前)、8・7、8・9、8・11(二通)、8・13、8・14、8・15(二通)、8・16、8・17、8・19、8・20、8・22、8・26(後)、8・27、8・28、8・30)、検面九通(8・22、8・23、8・24、8・25、8・26、8・27、8・28、8・29、9・3)及びこれらとほぼ内容を同じくする員作成の昭和五〇年九月一〇日付検証調書抄本の指示説明部分のみであり、これ以外に存せず、情況証拠としては検察官が本件において強取されたとしている宝石五点を被告人が所持していたことである。そこでまず被告人の自白の信用性について判断し、次に情況証拠について検討することとする。

第三被告人の自白の信用性について

(一) 客観的状況との矛盾について

本件についての最初の自白である8・5員面(前)によると、被告人は昭和四九年一〇月末ころ、当時居住していた千葉県船橋市内のアパートを出て、姫路市内で博奕をした後、岡山市へ来てぶらついているうち、所持金が少なくなったことから小野田方に盗みに入ることを思いつき、二、三日岡山市内の後楽園や岡山駅で野宿し、一一月六日午後二時過ぎ樫の棒を持って小野田方に行き同家玄関先で屋内の様子を窺おうとしていたところ、たまたま征子に見つかって同家玄関で口論のすえ、棒で同女を殴打して殺害したのち、宝石五点、株券、現金等を強取して放火し、犯行後岡山駅から電車で倉敷駅に行き強取した株券等は倉敷市内の川に投げ捨て、宝石五点のうちダイヤ一点は前記東洋美術館に売却したが、その他の四点は昭和五〇年五月末か六月初ころ、横浜市内の横浜港に投げ捨てた旨述べ、その後の前記各員面、検面においても大綱においては右とほぼ同旨の供述をしているところ、右自白には以下に述べるように(1)犯行に至る経緯、(2)犯行後の状況、(3)賍品の投棄場所について客観的状況との明らかな矛盾があり、この限りにおいてはいずれも被告人が捜査官に対してことさら意図的に虚偽の供述をなしたものということができる。

(1) 犯行に至る経緯

8・23、8・24各検面、8・5(前)、8・7、8・9、8・11(前)、8・13、8・14各員面によると被告人は次のとおり供述している。

すなわち、被告人は昭和四九年一〇月三一日、当日長男の生命保険を解約した金一〇万円と所持金五万円合計約一五万円を持って、千葉県船橋市本町四丁目六番二二号の妻子のいる借家を出て姫路市に赴き、同市内で賭博をして約一〇万円負けて翌一一月一日午前二時ころ岡山市へ着き、その夜は岡山駅構内待合室で寝た。翌一日は岡山市内や倉敷市内をぶらぶらして夜は倉敷市役所の駐車場のベンチで野宿した。翌二日は倉敷市内の公園や水島商店街をぶらつき、水島商店街付近の用水路のそばで野宿したが、その際「こんな状態で日を過ごして行けば段々所持金も少なくなるし、そうなれば船橋の家に帰れなくなるという気がして自分でも何とかしなければと思い、以前盗みに入ったことのある岡山市内の田代勝正方か小野田方に盗みに入るほかない」と考えるようになった(8・23検面)。一一月三日は、水島から岡山へ戻って映画館で知り合った女性と同市内中島町へ行き、同所でその女性と別れてから小野田方付近をぶらつき、夕方小野田方に入ろうと思ったがやめて、同市内後楽園外苑の弓道場のそばで野宿した。一一月四日、小野田方に盗みに入ろうと考え、同家周辺の路地を行き来しているうち、岡山市京橋町六番三号の西大寺町朝日稲荷の板塀付近で一本の樫棒を見つけ、その夜は同市内の岡山大学のグランドで野宿した。翌一一月五日、午後三時ころから小野田方周辺を歩き回り、同家の様子を窺ったり、前日見かけた朝日稲荷の樫棒を持って素振りしたりして、同夜は岡山市民会館北側のベンチで野宿した、というのである。

しかしながら、被告人の当公判廷における供述(第五回、第一二、第一三回、第一五、第一六回)、被告人作成の弁護人に対する昭和五一年四月一〇日付書簡証人山本春市、同中島すみ子に対する受命裁判官の各尋問調書、受命裁判官の昭和五一年五月一〇日付(株式会社トヨタレンタリース京都、京都駅前営業所に対するもの)、同月一一日付各検証調書、符1・符2、符21ないし27によると、右犯行に至る経緯について被告人が述べている内容は明らかに事実に反しており、この間の被告人の行動は真実は次のとおりであったと認められる。

すなわち、被告人は昭和四九年一〇月三一日深夜、岡山市に来たことまでは前記と同じ経過であるが、そのあと同市田町一丁目一二番二〇号所在の中島すみ子経営のスナックセルブールで飲酒し、同女と市内のホテルに同宿した。ついで一一月一日午後三時ころから午後四時ころまでの間に、小野田方の東隣りである岡山市京橋町七番五号佐藤弘方六畳間から現金一六万三〇七八円、普通預金通帳、小切手帳等在中の手提金庫を窃取し(従って被告人は当時少なくとも現金約一六万円を所持していた)、夕方セルブールで飲酒後右すみ子と市内のホテルに泊った。翌一一月二日も夕方セルブールで飲酒したのち、右すみ子と市内のホテルに同宿した。翌一一月三日午前一〇時ころ右すみ子とともに岡山から新幹線で京都まで行き、京都市下京区国鉄京都駅西口前のトヨタレンタリース京都京都駅前営業所でレンタカーを借りて京都市内を見物し、同夜は京都市左京区あわた口鳥居町五五番地ホテル南禅寺御苑に同女とともに宿泊した。翌一一月四日も右レンタカーで同女とともに京都市内を見物し、レンタカーを返還したのち、右ホテル南禅寺御苑に宿泊した。翌一一月五日、夕方同女とともに新幹線で岡山に着き、一旦同女と別れ、その夜再び前記セルブールに出かけて飲酒後、同女と岡山市内のホテルに泊った。

以上のとおり、被告人の犯行に至る経緯についての自白、特に数日前から小野田方に侵入すべく同家の周辺をぶらついてその機を窺ったとか、その折樫棒を発見したなど、全く虚偽であることが明らかである。

(2) 犯行後の行動について、

8・26、8・27各検面、8・5(前)、8・17、8・27各員面によると、被告人は本件犯行後、岡山駅から電車で倉敷駅に行って、同夜は同駅待合室のベンチで眠り、翌一一月七日午前一〇時過ぎ岡山駅に戻り新幹線で千葉市内の自宅に戻ったことになっているが、証人玉崎靖子の証言(第八回)、同人の員面、岡山鉄道管理局公安課第二係長発検察官宛「列車運行状況等について」の電話聴取書によると、昭和四九年一一月六日の新幹線岡山発東京行の列車の運行は、一本が約三分遅れたほか全て定刻発車であること、玉崎靖子は被告人の妻の妹であるが、昭和四九年一一月初、船橋市内の被告人宅に同女の妹裕子とともに泊ったことがあり、当夜一二時過ぎ被告人が帰宅し、妻と二、三言葉を交した後再び家を出て外泊したこと、その日は一一月三日、四日の連休明けの二日ないし三日間、つまり同年一一月五、六、七日のうちのいずれかであるが、同女は会社に出勤中被告人の妻か右裕子から電話で誘いを受けて被告人宅に出向いて泊り、翌朝被告人宅から東京都内の会社に出勤したことが認められる。

そして、押収してある玉崎靖子のタイムカード(符28)によると、昭和四九年一一月二日ないし四日は休暇、同月五日ないし七日は出勤、同月八日は千葉の営業所に直行となっている。従って同女が被告人宅で被告人を見たのは同年一一月五日、六日のいずれかの夜であることとなるが、同女の休暇明け直後の五日の夜、被告人方に泊ったようには思わないという証言と、証人中島すみ子に対する受命裁判官の尋問調書、符1によれば被告人は同年一一月五日夜は岡山市内の前記セルブールで飲酒していることが認められることを総合して判断すると、一一月五日の夜ということはありえず、結局被告人は一一月六日午後一二時過ぎころ船橋市内の被告人宅に立ち寄っていることになり、被告人の前記自白と明らかに矛盾することになる。

(3) 賍品の投棄場所について

8・29検面、8・22員面によると、被告人は強取した宝石五点のうちダイヤ一点を除くその余の四点の宝石を、昭和五〇年五月下旬ころか六月初ころの午後七時から午後八時ころまでの間、横浜市中区新港町無番地新港埠頭一〇号上屋前岸壁から一五ないし二〇メートル先の海中に投棄したことになっており、同所の実況見分もなされている。

しかしながら、被告人の当公判廷(第五、第一二回)における供述、受命裁判官の昭和五一年五月一二日付検証調書、裁判所書記官作成の昭和五一年四月七日付捜索差押調書、符17ないし符20によると、被告人は、昭和五〇年五月下旬ころか、六月初ころ、千葉市新宿二丁目所在の新宿公園において、サファイア(符17)、ブルーサファイア(符18)、エメラルド(符19)各一個はひとまとめにして、同公園北西隅付近の植木の下、地中約四八センチメートルの位置に、オパール一個(符20)はこれとほぼ相対する反対側の植木の下、地下三〇センチメートルにそれぞれ埋めていたことが認められ、賍品四点の処分に関する前記自白は明らかに虚偽である。

(二) 被告人の供述内容の変転について

次に被告人の検面、員面は前記のとおり合計二七通にのぼるが、その供述内容がはじめは概括的、抽象的であったのが、取調の進展に伴い、詳細、具体的な供述になっているけれども、それは通常みられるべき変化であって、あえて異とするには足りないと思われるが、それにしても犯行の時間、態様、手段等重要な事項について供述の変遷がある場合には、記憶違いであったとか、意識的に虚偽の事実を述べた等の納得できる何らかの理由がなければならないであろう。

もっとも被疑者、被告人が自白する場合にあっても、常に必ずしも完全な自白をするのではなく、意識的、無意識的にあるいは自己の防衛本能により自己に有利に事実をわい曲したり潤色して述べ、不都合なことは意識的に述べなかったりすることもあり、また供述調書は取調の結果を記載するものであるから、取調官によって質問の方法、取調の重点の置き方等が異なる場合があるのは当然のことであり、それ故警察官には述べないでいたことが、突然検察官に対する供述として現われることも充分考えられることである。従って、供述内容に変遷があるからということを理由に、直ちにその供述を信用できないとすべきでないことはいうまでもないが、犯行を心から悔い、改悛の情から供述を任意に始めた場合、しかも犯人ならば当然記憶しているであろうと思われる事項について述べる場合、その供述が前後矛盾したり、大きく変転することはむしろ少ないのではなかろうか。このような見地から犯行時の状況に関する被告人の供述を検討すると、次の諸点に関する自白内容が注目されるべきであろう。

(1) 征子の着衣について

8・5(前)員面によると「征子の服装についてははっきり記憶していない。着物か服かもすぐ思い出せない」となっていたのが、8・15員面(前)では「征子の服装は紺色の上衣、下は色違いのスカートで、ミニスカートではなく長いスカートであったと記憶している。スカートの柄など覚えていない」となり、8・24検面になると「当時の模様を想い起こしていくうちに最初の時和服を着ていたと思っていたのは思い違いだった。征子は上半身がブラウス、下半身がスカートのような感じで、エプロンを掛けていた記憶はないが、ベルトのようなものをつかんだような気もする」と述べ、8・30員面では本件当時の征子の着衣を示されて「紺色セーターは現物を見てはっきり思いだした。エンジ色に黒柄のスカートはエンジ色の記憶のみあるが柄まで覚えていない。洋服を着ていたことは間違いない」と供述している。

そして征子は前記第二記載のとおり、白色前掛け、紺色毛糸セーター、エンジ色に黒柄のスカートを着用したまま発見されたことは明らかである。

(2) 犯行時間について

8・5(前)員面によると「小野田方に入った時間はよく覚えられないが午後二時はまわっていたと思う」と供述していたが、8・7員面では「午後三時か四時ころ」、8・9、8・11(前)員面では「午後三時過」、8・15(前)員面では「午後三時半ころから午後四時ころまでの間」となり、8・25検面では「私が小野田方から逃げだしたのは夕方五時ころか、少し前頃だったように思う。入ってから逃げだすまでは大体三〇分から四〇分くらいだったように思う」と述べている。

他方証人小野田米男の当公判廷における供述、清水理尚の検面及び員面、西崎郁江の検面(二通)及び員面(昭和四九年一一月六日付)、小野田米男の検面(昭和五〇年八月二〇日付)及び員面(昭和四九年一一月一一日付)によると、犯行があったのはほぼ午後四時五分ころから午後五時ころまでの間と認められる。

(3) 征子の殴打を受ける際の姿勢について

この点に関し、8・5(前)員面によると「奥さんの死体はあお向けに転がしたままにしておいた」との供述であったが、8・7員面では「奥さんは頭を南に向け、横向きから少々ふさり気味になっていたと思うがその状態になっているのを棒で殴りつけた」ついで8・15(前)員面、8・25検面では「同女があお向けに倒れているのを何回か殴っているうち、気持が悪くなり顔を見ないようにして背中の方を足で蹴るようにして奥さんの体を完全にうつ伏せにした」との供述に変わっている。

他方、員作成の昭和四九年一一月六日付実況見分調書によると、征子は頭を南に、足を北に向けてうつぶせの姿勢で発見され、右足は伸ばし、左足は「く」の字形に曲げ、右手は肘を折り曲げ、左手は内側に折り曲げ体の下になったままであったことが認められる。

(4) 放火の位置、方法

8・5(前)員面において「奥さんの枕元に火をつけてすぐ逃げた」と供述していたが、8・7員面では「家の中のほぼ中央付近で枕元ではなかった」と述べ、8・9員面添付図面では小野田方一階六畳の廊下寄りの端になり、8・16員面では「台所から新聞紙を持って来て重ね、六畳間南側障子戸の下に火をつけ、さらにもう一か所火のついた新聞紙を持って隣りの奥さんの部屋(八畳間)へ入り、この部屋の中央辺りに置いて火をつけた」と二か所に放火したことに供述が変わり、ついで8・25検面においては「台所の畳の上と廊下付近の二か所から新聞を集めて六畳南側廊下に出る障子戸に火をつけた後、東隣りの八畳間に行き、ほぼ中央付近に新聞紙を重ねてそれにマッチで火をつけた」との供述になり、新聞の調達場所、八畳間の放火方法が変わっている。

そして員作成の昭和四九年一二月三日付検証調書によると、小野田方六畳間南側及び東隣りの八畳間部分は他に比して焼燬度が強かったことが認められる。

(5) 手袋の着装時期について

8・15(前)員面の「征子を殺害した後、物色の前に白手袋をした」との供述から、8・25検面になると「同女を六畳間に引き上げた後殺害する前に上りがまちのところではめた」ことに変わっている。

(6) 各室の物色の順序について

8・5(前)員面、8・9員面添付図面によると「一〇畳間寝室から台所三畳間、ついで八畳間」であるが、8・15(後)員面では「一〇畳間から八畳間、そして台所三畳間もう一度一〇畳間」に変わり8・25検面になると「一〇畳間から台所三畳間、次に八畳間」となって当初の供述の順序に戻っている。

(7) ガスコンロのコックを開放した理由について

これに関し、8・16員面では「ガステーブルで火をつけようとしたが、つかなかったのでどうせ家に火をつけるんならほっておけばよく燃えるだろうと思ってそのままにしていた」と供述していたのが、8・25検面では「ガステーブルのコックを元通りに戻したものかどうか気がまわらなかったためで別に早く燃やすためガスを出し放しにしたのではない」と供述が変わっている。

そして、員作成の昭和四九年一二月三日付検証調書によると、小野田方台所ガスコンロのコック三個のうち二個が全開、一個は少し開かれた状態になっていたことが認められる。

(8) 受話器について

8・15(前)員面によると「征子は受話器を持ったまま倒れたと思う。私も非常に興奮していてよく覚えていないが受話器を元に戻すことはできないと思う」と供述していたのが、8・24検面では「受話器はぶらさがったままになっていたが、征子が元に戻した記憶はなく、自分が元に戻したかどうかはっきりしない」となり、8・25検面では「今になって思いだしてみると事務所入口のカーテンを閉めた時、自分が受話器を元に戻したように思う」となっている。

そして、員作成の前記検証調書によると、受話器は電話器に戻されていたことが認められる。

その他凶器の棒を持ち出した契機についても8・16員面では放火した後逃げようとして棒を思い出して取りに行き、障子が燃えている状況を見た旨供述していたのが、8・25検面では障子が燃え上るのを見て逃げることにして後棒に気づき持出した旨の供述になっている。

以上指摘したように、被告人の自白は被害者の着衣、犯行の時間、態様、手段等についてその供述に顕著な変遷が認められる。特に、被害者の着衣については、和服か、洋服かということは通常間違えようのない事柄であると思われるうえ、仮に被告人が真犯人であるならば、犯行直前事務所土間において征子と相対して会話を交し、また殴打後征子の着衣をつかんで引きずりあげ、その後も凶器を振って被害者の身体上方から数回殴打したりしていることからすれば、着衣が和服であったか洋服であったかを見誤ったり記憶していないとはいささか考えにくいこと、犯行時間についても一一月六日の午後二時かあるいは午後四時かということは当時の予想される日没時間から考えてきわめて大きな違いであると思われること、放火の実行行為も本件においては被害者を殺害する方法と並んで極めて重要な点であるが、放火位置につき一か所から二か所に変わり、八畳間の放火の手段について「火のついた新聞紙を持ってきてつけた」から「マッチで火をつけた」と供述が変転していることなどたんなる記憶の混乱や誤りであるとか、印象が薄かったとか、あるいは興奮激情していたからとして簡単に片付けられるものではないと思われるところ、その供述変更の理由についてこれという納得できる説明がなされていないうえ、供述変転の結果については、そのいずれもが捜査官にとって既に客観的に明らかであった状況にほぼ矛盾しないようなところに落ちついているということができる。そうすると、被告人が当公判廷で供述するように、警察や検察庁で取調を受けたときには、当初新聞で得た知識や以前小野田方に行った時の経験を基にして想像して話していると、「色々ああではないか、こうではないか」との取調官からの暗示や誘導を受けて自白したという弁解もあながち排斥できないものであると思われる。特に、既に前記(一)で述べたように、被告人は当初から捜査機関に対し、意識的に虚偽の事実を供述していることからすると、右の供述の変遷についても慎重な検討を要するのは当然であって、他の証拠についての検討の結果と総合的に判断しなければならず、被告人の自白の信用性について一応の疑問を留保せざるをえない。

(三) 供述内容自体の不自然さについて

被告人の自白には、その内容自体に不自然さを感じさせるものがあり、また、犯人であるならば当然実感を伴った説明ができるであろうと思われるところにそれを欠き、被告人が真実体験した事実を供述しているのか疑問を抱かざるをえないところがある。

(1) 犯行の動機について

まず、犯行の動機についての被告人の自白には不自然な点が多い。(イ)8・24検面によると、被告人は一一月六日の本件犯行前、午前一一時ころから数時間、小野田方の様子を窺うため同家付近を徘徊したことになっているが、査作成の昭和五〇年八月一九日付実況見分調書によると被告人が主に徘徊したという前記朝日稲荷一帯の路地は、日常付近に住んでいる六戸の家族のみが通行に供しているだけであるから、同所付近を徘徊すれば不審に思われやすいことに加えて、小野田米男の員面(昭和五〇年八月九日付)によると、被告人は同人と面識があり、また同人方付近の喫茶店、麻雀店等によく出入していたことがあるから、顔見知りの人と出会う可能性も少なくないと思われるのにかかわらず、犯行前白昼堂堂と現場で数時間も徘徊することは不自然でにわかに首肯し難い。被告人がこのような不自然な供述をしたのは当初から「一一月三、四、五日と小野田方の様子を窺った」「一一月五日の夜市民会館北側ベンチで野宿し、午前一一時ころ小野田方へ出かけた」旨虚偽の自白をしており、犯行時刻に合わせるためどこかで暇をつぶしたように供述する必要があったからではないかと疑われないでもない。(ロ)8・23、8・24各検面によると小野田方に盗みに入ることを決意した経緯について「一一月二日夜倉敷市内の水島商店街で野宿した際こんな状態で日を過ごしていけば段々所持金も少なくなり、そうなると船橋の実家に帰れなくなるという気がして漠然と小野田方も含めての窃取を考え、一一月三日小野田方に入ることを決め、一一月四、五日は同家の様子を窺い、一一月六日はいたずらに日を重ねていけば手持ちの金も段々少なくなり、ますます船橋の自宅に帰りにくくなってしまうのでこのへんで思い切って盗みに入る決断をしなければならないといった突きつめた気持ちになっていたように思う」と供述するのであるが、前記のとおり被告人は一一月一日現金一六万三、〇七八円を窃取していること、右の一一月三日、四日、五日の行動説明は全く嘘であること、従って小野田方に盗みに入る理由が欠けてくること、また被告人の当公判廷における供述(第一一、第一二回)、符1によると被告人は昭和四九年六月ころから妻子を残して行方をくらまし、同年一〇月ころ船橋市内に借家を探して妻子と再び同居しているが、その間しばしば家を開けて岡山へ来ており、これらの点からすると、手持ちの金が少なくなり、船橋の自宅に帰りたいために突きつめた気持ちになって一一月三日ころから小野田方に目星をつけたという説明はそのままには信用できないものがある。(ハ)8・24検面によれば、小野田方の家の中の様子を窺おうと、樫様の棒を杖をつくように持って、同方玄関ガラス戸に顔を近づけたところ、上りかまちの上にいた征子から「どなたですか」と声をかけられ、家の中に入ったというのであるが、このような場合棒を持っている被告人としてはそのまま立去ろうとするのではなかろうか、その方が小野田方の様子を窺った目的にもかなうし、あえて棒を持って玄関に入れば、かえって征子の疑惑と警戒心を深めることになると思われるのに、「逃げたら怪しまれると思って入った」(8・24検面)というのであるから、この点もいささか不自然さを感じさせる。かりに、そのとき征子と目が合った(8・7、8・15(前)各員面)のみであったとしても同ようであると思われる。さらに8・23、8・24各員面、査作成の昭和四八年一二月一一日付及び査作成の昭和四九年九月一四日付各実況見分調書によると、被告人は本件以前にいずれも小野田方において、昭和四八年一二月一一日深夜同家洗面所から、同四九年九月一四日午後一時三〇分ころ風呂場の窓ガラスから、いずれも侵入し(この際の窃盗については判示第二、別表1、3のとおり)、特に後者の場合は小野田米男が寝ているのを知りながらその枕辺で窃取していることが明らかであること、しかも前述のように同人方付近路上において顔見知りの人に見つかる危険性もないとはいえないのに、あえてわざわざ白昼棒を持ったまま小野田方の様子を知ろうとして玄関のガラス戸越に窺きこむこと自体、たやすく納得できない行動である。(ニ)8・5(前)、8・15(前)各員面、8・24検面によると、被告人は小野田方で征子と口論のあげく、同女が警察に電話するといいながら受話器をとったので、これを阻止するため思わず左手で同女の顔面を殴打したと供述している。その口論となった経緯について、被告人は、用事がある風を装うため同女の夫の行先をたづねたが、これに同女が応ぜずかえって執拗に自分の名前をたずねるので、答えるわけにもいかずそのうち小野田米男が帰宅するかもしれないと思い焦りを感じ、しだいに強い口調となり、征子に対し「会えば判る、どうしても主人に会わせてもらいたいんぢゃ」(8・15(前)員面)とか「電話が出来るんなら社長の居るところを知っておるんでしょう」(8・24検面)と述べたのに対し、同女が「警察に電話する」といったことになっているが、小野田米男の員面(昭和五〇年五月一〇日付及び同年八月九日付)、検面(同年八月二〇日付)によると、被告人は昭和四八年一〇月ころからしばしば小野田方で賭博をしたことがあり、征子と顔を合わせているとみられること、特に昭和四九年八月ころ征子が留守番をしているとき刀を持って金を借りに行ったことがあり、征子も小野田米男に「大倉さんが刀を持ってきた」と伝えていること、征子は金融業者の妻であって、来客との応待には慣れていたと思われることなど考え合わせると、被告人が同家を辞去する方便としては他に適当な口実が考えられるし、また、当公判廷における被告人の供述態度等から窺える被告人の慎重かつ物静かな語り口などから考えても、果たして右のとおりの問答があったかどうか疑問なしとせず、右問答自体も事の成行としては何かが欠落している感のある不自然さが存する。そして、あるいは、捜査官が当初から入手していた通りがかりのマッサージ師清水理尚の供述中に、本件当時征子と思われる女性の声で、「警察にいう」といったのを聞いたとある(同人の員面、検面)のに関連づけるためではなかろうか、と思われないでもない。(ホ)次に殺意を生じた経緯について被告人の自白によると、征子の顔面を殴りつけたところ、同女が倒れて後頭部を上りがまちに打ちつけ、血が流れているのが見えたので、「このままでは私が犯人であることが判ってしまうのでいっそ奥さんを殺して金になる物を盗んでやろう」(8・15(前)員面)、あるいは「私はその血を見ている間に急に奥さんを殺してしまおうという気になってきた。万一にも奥さんが私のことを想いだして夫にいうかも知れない。そうなると警察にもわかり言訳はできない。結局盗みの目的で小野田方に行ったこと、これまでの盗みがばれてしまうと思った」(8・24検面)というのである。それまで窃盗の目的のみであった被告人が、「血」を見て警察につかまるからと思い、殺害までも考えるというのは、いささか飛躍があるけれども、このような事例も絶無ではないから、その点はおくとしても、そもそもあらかじめ凶器を携行していた被告人としては、この期に臨んではじめて殺意を生じたかのように述べているのは少し肯けないものがある。また、かりに被告人の自白するとおりであるとしても、家を出る直前に始めて放火を決意したことになっていることとの間に、自然な関連が感じられない。加えて、前認定のとおり被害者の顔面、頭部を凶器でめった打ちにした残忍かつ冷酷な殺害方法は、被告人の述べる前述の動機にいささかそぐわないように思われる。

更に、もともと窃盗の目的であったと自供しかつ宝石を盗んでいながら、員作成の昭和四九年一二月三日付検証調書によると、小野田方階下八畳間が物色され、同室内にメキシコオパール指輪、エメラルド指輪、真珠ネックレス、ダイヤ指輪各一個が容易に発見できたと思われる状況で残されていることは、何とも合点がいかず、この点について何の説明もない。

(2) 犯行に使用したとされる凶器について

被告人は、捜査段階においてほぼ一貫して、犯行に使用した凶器は長さ約一メートルの鍬の柄のような樫の棒で、昭和四九年一一月四日ころ前記朝日稲荷先の路地で見かけ、同月六日午後、小野田方に盗みに入って家人に見つかった時には相手を脅そうと考えて杖をつくようにして持っていった。本件犯行後棒を小野田方から持出し、岡山市内山下一丁目一〇番一〇号所在の水之手公園西出入口に投棄した、旨自白している。

しかしながら、そもそも被告人は、昭和四九年一一月四日前記すみ子と京都旅行をしていたことは既に述べたとおりであるから、その日に棒を発見することがありえないのは当然として、かりに別途用意していたにしても、血痕が付着していたと思われる棒を小野田方に放火しながらわざわざ持出して、人通りの多い道路を水之手公園まで歩き、しかも発見されやすい右公園に投棄すること自体不自然であり、さらに員作成の昭和五〇年八月一八日付実況見分調書によると、同公園は小野田方から約二五〇メートルしか離れていないところであって、初期及びその後の捜査にもかかわらずいまだ凶器の棒は発見されていないこと、また小野田方から水之手公園までの間は、人家の密集した市街地であること等を考えると、被告人の犯行に使用した凶器の棒を持っていた経緯や、犯行後水之手公園に投棄したとの供述内容自体に不自然な点がある。このことは、検察官が最終的には、火中に投じて焼いたのであろう、と、全く証拠上認められない単なる推測による論告をなさざるをえなかったことに徴しても明らかといえる。そうすると、「杖をつくようにして棒を持っていた」という一見奇異な行動について、被告人が当公判廷(第一五回)において述べる「新聞で、目撃者であるマッサージ師の証言を読んだことがあり、それから連想して勝手につくりあげた」という弁解も、いちがいに排斥できないこととなる。

飜って考えてみると、本件犯行に使用した凶器が、はたして被告人の自白にあるような棒であるかどうかについても疑問なしとしない。すなわち、医師三上芳雄作成の嘱託鑑定書によると、征子の頭部の挫創は鈍器の作用に基くもので、頭蓋骨において線状の骨折を存する点から、鈍器は線状の辺縁部を有するものとも認められる、とされている。

ところで、被告人は凶器に関し、8・5(前)員面では樫の棒(長さ約一メートルで握れる鍬の柄程度)、8・7員面では黒ずんだような丸い棒一本(長さ一メートル、直径約四、五センチメートル)と述べ、8・9員面添付図面二枚目では長さ約七〇センチメートル、直径上約四センチメートル、下約五、五センチメートルの丸い棒が描かれ、終始一貫して丸い棒であったと述べている。しかし、8・24検面では「棒の一方の端は表面が丸味を帯びていた。もう一方の端は、それよりも一廻り太い感じであって、しかも棒の先端から約八、九センチメートルの範囲にわたっては棒の断面がやや長方形をなしたように角張っていた」と述べ、ここでは棒の太い方の先端がやや長方形をなしたように角張っていることに変っている。この点はきわめて重要であり、前記鑑定結果から推測される凶器の形状、すなわち線状の辺縁部を有するもの、とあるのに照らすと、員面では丸い棒のままであってこれと矛盾するが、検面ではこれと矛盾しない形状のものであったことになるが、格別この供述の変化について説明はない。また右の嘱託鑑定書によって認められる征子の左右後頭上部、頭頂部等の挫創から判断すると、凶器は被告人の自白にあるような棒ではなく、もっと重量のある物ではないかとの疑問もないではなく、しかも朝日稲荷に棒があったという被告人の自白は、一一月四日にそれを発見したと意識的に虚偽の供述をしたうちの一部分として供述しているのであるから、はたして棒があったかどうかという基本的なことすら不明であると考えられるので、本件犯行に使用された凶器については、その発見の経緯が虚偽であり、使用後の処分が不明であり、成傷用器としての適合性に疑問がないとはいえず、結局右凶器に関する被告人の前記各自白はただちに措信できないといわざるをえない。

(3) この他にも被告人の自白についてはいくつかの不自然な点がある。例えば(イ)8・16員面、8・25検面によると「小野田方六畳間に火をつけるため、新聞紙を持って台所に行き、ガスコンロの火で点火しようとした」というのであるが、被告人は煙草を吸うので、マッチあるいはライターを持っていただろうと思われるし、台所で着火して少し離れた六畳間に持って行こうとするのも肯けないことであり、むしろこの供述は、ガスコンロのコックが開放されたままになっていたことを説明させるためにした、こじつけではないかと思われないでもなく、しかも最終的には征子が倒れている部屋の机のマッチを使ったこととなっている(8・16員面、8・25検面)。(ロ)8・17員面、8・26検面によると「本件犯行後、小野田方から強取した風呂敷包みを持って、同人方から裏通りや柳川交差点などの繁華街を約三〇分歩いて岡山駅に行き、そこから汽車で倉敷に行った」というのであるが、一一月六日午後五時ころといえばいまだ充分明るいと思われる(このことは、員作成の昭和五〇年八月二三日付捜査報告にある発見時の火災状況の写真から明白である。)のに、着衣に血痕が付着していないかどうか確かめた形跡がなく、ようやく本件犯行翌日の「一一月七日朝、倉敷駅から岡山駅へ戻った際、始めて洗面所の鏡をみて服や顔に血がついていないのを確かめた」という(8・17員面)のであるが、一一月七日の行動に関する供述が虚偽であることは、既述のとおりであるのみならず、右のような行動説明自体理解に苦しむものであり、しかも、員作成の昭和四九年一二月三日付検証調書によると、小野田方事務所東側壁に血痕が残っていることや、また六畳間にも大量の血が流失していたことが認められることなどに照らすと、翌朝になって始めて血がついていないかどうかを確かめたというのも遅すぎるといえるようである。また、(ハ)8・26検面によると「本件犯行後、岡山駅に行き新幹線で東京まで戻ろうと思ったが、当時(午後五時三〇分ころと思われる)暗くなっていたので、もう東京行の列車はないと思いあきらめて倉敷に行った」というのであるが、検察事務官作成の岡山鉄道管理局公安課第二係長発検察官宛列車運行状況等についての電話聴取書によると、当日の新幹線の最終列車は岡山駅発一九時一〇分の九八号であるから、駅の時刻表を確認すれば直ちにわかることであり、また被告人の当公判廷の供述、符1によると被告人はしばしば岡山・東京間を往来していることが認められるから、被告人は東京行の最終列車が何時ころかおおよそ知っていたことであろうから、右の倉敷に行ったこと及びその理由は肯けないことであり、このことは、既述の一一月六日深夜被告人は船橋市内に帰っていたことを反面から裏づけるものといえよう。(ニ)さらに、犯行時の着衣、手袋については、自白によると、それぞれ捜査官の手もとに押収されていることが窺われるところ(着衣につき8・30員面、手袋につき8・25検面)、これらの資料に血痕が付着していたとの証明はない模様であるから、右着衣、手袋以外の品を使用した疑いがないではなく、この点に関する被告人の供述も虚偽である可能性があるといえる。

(四) 被告人の自白に基づいて新たに発見された証拠の有無

被告人の自白に基づく捜査によって、自白当時捜査官に未知であった事実の真実性が確認されれば、自白の信用性は高められ、特に真犯人でなければ述べることができない賍品や凶器の所在、隠匿、投棄場所などが明らかとなれば、それだけで十分自白調書の信用性を肯定できよう。

ところで、本件において、被告人の自白に基づいて新たに発見された証拠としては、検察官が小野田方から強取されたとする宝石五点のうちダイヤモンド一点が、被告人自白どおり東洋美術館に売却されていたことが明らかになったこと前述のとおりであるが、しかし右宝石五点は後に述べるように、本件において強取したのではなく、昭和四九年一一月一日窃取したと考えられないでもない余地を残しているから、これをもって本件に関する自白の信用性を担保するものとすることはできない。

他方では、犯人しか知り得ない重要な事実である凶器の棒についての自白が信用性に疑問の残ることは既に触れたとおりであるが、その棒の行方、さらには強取した風呂敷包み在中の定期預金証書、株券、保険証書等の投棄場所などについての自白は、いずれもこれを裏付ける証拠が発見されないままに終っている。すなわち、第五回公判調書中の証人井田照久の供述部分、員作成の昭和五〇年八月一八日付、二四日付各実況見分調書、員咲本成生(昭和五〇年八月六日付)、員中塚昭典(同月一七日付)作成の各捜査報告書によると、被告人の自白に基づき、棒については小野田方から前記水之手公園までの通路、右公園一帯を、付近の聞込みなども含めて一週間にわたり捜査し、また、風呂敷包み在中の書類については、昭和五〇年八月一一、一二日までの二日間投棄したとされる倉敷市中央二丁目一九の一加納圭一方西側から、下流の最終地点同市白楽町四二四倉敷市清掃事業所入口までの間の全長九五七メートルの用水全域に亘って、のべ四五名で川底の汚泥をすくいあげふるいにかける等して、綿密に捜索したが、いずれもこれを発見するに至らなかったことが認められる。

これに関連して検察官は、被告人の「事件当日、岡山市京橋町九番三号のパチンコ店ハワイ会館に立寄ったところ、同店は休業であった」旨の自白(8・14員面)に基づいて捜査した結果、右自白どおり、犯行当日右「ハワイ会館」が休業していたことが明らかになった事実がある旨主張する。

しかしながら員作成の検証調書抄本によると、小野田方と右ハワイ会館はわずか約一〇〇メートルしか離れていないのであるから、捜査官が事件発生直後、犯行当日の状況について当然聞き込み捜査の対象としたのではないか、その際当日同店は休業日であったことを知りえたのではないか、と疑う余地がないとはいえず、凶器や、賍品が発見されていないことに比すれば、右の事実をもって自白の信用性を担保するには程遠いものがあるといわざるをえない。

これを要するに、当裁判所は、被告人の自白調書の内容と、本件において取調べた関係各証拠を子細に対比し検討してみたが、捜査官に未知の事実、証拠が被告人の自白に基づき新たに発見されたものは皆無であるといわざるをえない。

(五) 自白過程の検討

(1) 詳細な自白はどうしてできたか

本件についての被告人の各検面、員面によると、被告人は捜査官の取調べの際、犯行に至るまでの経緯、犯行状況、犯行後の逃走状況、賍品の処分先等本件犯行の全般について、自発的に相当詳細な供述をしていることが認められ、特に各検面については、被告人の当公判廷における供述態度を念頭に置きながら閲読して行くと、被告人の特異な供述態度が文章の行間から如実に読み取れ、被告人の語り口をそのまま文章化して行ったことが明らかに看取できる。被告人が公判廷で示した供述態度は、質問に答えるに当り慎重に相手の意図を推察し、計算したうえでなければ答えず、供述する際にも、時に応じあいまいに、また漠然としか答えなかったり、あるいは卒直に即答することは少なく、熟慮しながら答えたり、経過、動機などの理由づけをしたうえで答えるという風であって、こうした被告人の口調がそのまま各検面に現われているように思われる。また、8・9、8・16、8・17各員面には、それぞれ犯行当日の犯行経緯、逃走経路、小野田方内部での行動経路などに関し、計一三枚の図面が添付されているが、これらの図面はいずれも詳細で自由なタッチで作成されていることが認められるから、これらの点からみると、被告人の前記各検面、員面は被告人の自由な意思に基づいた供述をそのまま記載したものということができよう。右供述の経過につき、被告人は当公判廷(第一二回)において、本件犯行に関する山陽新聞の記事を読んだりして得た知識や、小野田方に約一〇回程出入して知っていた同家の状況などを基にしていろいろ想像しながら自白したが、わからない点について考えこんでいると、取調官から、こういう状況ではなかったかとか、それでは不都合なことがおこるのではないかというようないろいろな誘導や示唆を受けて徐々に作成されたものであると弁解している。

右弁解は、被告人の自白の内容が詳細かつ具体的であって、被告人の弁解するような理由のみでこのように詳細かつ具体的な供述調書が作成されたというのは、充分納得しがたいところであるが、前記第三の(一)「客観的状況との矛盾について」のところで説示したように、犯行に至る経緯、犯行後の状況、賍品の投棄場所などに関し、被告人は意識的に虚偽の供述をしていることが明らかであるが、右虚偽の事項についても同よう極めて詳細で具体性に富んだ供述をしている(例えば8・23検面八項の一一月三日午後五時過ぎころ小野田方周辺の行動状況等)ことに照らすと、被告人はかなり高度の想像力を働かせ、供述相互間に矛盾を生じないよう配慮しながら、強固な意思を持って取調に臨み供述をしていることが推測でき、また、被告人の当公判廷(第一一回)の供述によると、被告人は岡山市内、倉敷市内、船橋市という本件犯行に関連する場所を熟知していることも認めることができるから、これらの点をあわせて考えると、被告人の前記弁解もただちに不当なものとして排斥することはできず、詳細な供述もいわば被告人の計算のうえに成り立っているのではないかと見る余地が多分にあるので、詳細かつ具体的な供述をしていることをもって自白の信用性を認める証左とすることには疑問が残る。

(2) 八月五日の自白の際の状況について

被告人の当公判廷(第一二、第一三、第一五、第一六回)における供述、証人土岐政美の当公判廷における供述、8・5(前)、8・26各員面によると、被告人は昭和五〇年八月四日土岐警部から取調を受け、本件犯行につき追及されたが、「一晩考えさせてくれ」と述べてその日は終り、翌五日午前九時四五分ころ、右土岐警部にいろいろ質問して、同人から(イ)接見禁止の決定がされているが、検事の許可があれば妻子と面会できること、(ロ)本件についての損害賠償の請求が家族、親族に及びはしないかという不安について、民事と刑事は別だということ、(ハ)昭和五〇年五月三日、岡山県警の刑事が船橋市内の自宅に訪ねてきたとき、妻の気転で逃げたが、そのことで妻が責められることはないことの回答を得たうえで、「実は私が計画的にやったことだ」と自供をはじめ、概略の自供をしたのち、土岐警部から言われてその場で正座し、被害者小野田米男方の方に向かって両手を合わせ、征子の冥福を祈ったことが認められる。この点につき被告人の当公判廷(第一六回)における供述によると、「内心芝居がかったことまでさせるものだと思い、非常に照れくさい気持で、手を合わせる恥かしさをこらえて言われるままにした」というのであって、正座して合掌祈念するようなことがあったことは事実であると認められる。右の自白前後の状況から見ると、被告人としては自白した場合の種々の不安を一応解消したうえ、宝石の処分先を含む概略の自白をしており、自白後の一見殊勝な態度も認められるのであるから、十分信用性に富むように見えるが、しかし、その後の自白の内容は既述のとおり客観的な事実に反することを含んでいて全面的には信用できないのであるから、被告人は前非を悔い本心から反省して真実を自白したとは到底いえず、むしろ右のような状況があったとしても、内心では虚構の事実を作りあげて、これをいかにも真実らしく語るという、冷静かつ計算ずくの供述をしたと認められるのであって、被告人が自白した際の状況をもって、その自白の信用性を肯定する資料にはなしえないと判断される。

(3) 被告人はなぜ自白を飜えさなかったか。

被告人が真犯人でないとすれば、何故強盗殺人、放火という非道きわまりない事件について一貫して自白の態度をとり続け、特に8・23、8・24、8・25、8・26各検面のように、本件犯行の動機、その前後の行動につき詳細かつ積極的に自白をなし、この態度を維持し続けたのかという疑問が残る。

この点について、被告人は当裁判所において次のように弁解している。

まず被告人作成の弁護人宛昭和五一年四月四日付発信の書簡(符39)によると、被告人は、昭和五〇年一月中旬か下旬ころ、岡山県警捜査官の本件犯行に関する聞き込みに応じたが、その際暴力団関係者に多額の借金があり追われているから極秘にしてほしいと頼み、確約を得ていたにもかかわらず、被告人が同年五月二〇日ころ岡山市内で暴力団組長景山勝俊と会った際、同人から被告人が本件犯行の犯人であるとの評判であると教えられ、また、千葉市内の香取鶏卵で宝石などを盗んだこと、千葉市内のベスティ宝石販売会社に就職に行ったこと、えびを一、〇〇〇万円位仕入れているのにその代金が未払であること、被告人方に火事があったこと、について真偽を問いただされ、警察から暴力団員に対し捜査の情報が流れていることを知り、警察に対し不信を抱いていたが、逮捕後の取調においても、取調官から警察が暴力団関係者に対し情報を流すのは当然のことである旨述べられたことがあり、加えて警察は被告人の妻の妹や被告人と関係のある人達も追及の対象にしているのではないかとの疑惑も、生じますます不信の念が高まった、という。

また、被告人の当公判廷(第一二回)における供述によると、弁護人宛の右書簡の内容に沿う供述をしたのち、自白を飜えさなかった理由として、被告人は逮捕当時重大犯人として疑われていることに非常な精神的ショックを受け、取調官から連日「とにかくお前が犯人なのだ。だから自供しなければならない。我々は一生涯つきまとう」といった趣旨のことを聞かされ、しだいに警察官にいかに話しても取りあげてもらえないという絶望感と、警察に対する前記の不信感から、自暴自棄になり、取調官のいいなりにならざるをえない心理状態におちいった結果、もし自白をすればあるいは死刑になるかもしれないことも知っていたが、いずれ正義は必ず勝つし、将来間違いはわかってもらえるだろうと確信し、後日法廷において真実を明らかにしようと決意を固め、捜査官に迎合して虚偽の自白をしたものである、と述べ、そのためにも被告人に有利な事情、例えば一一月一日小野田米男方の隣家である佐藤方で現金を窃取したこと、中島すみ子と一一月三日ないし五日にわたって京都へ旅行しレンタカーの借用申込書に署名していること、宝石四点は実は千葉市内の公園に埋匿していることなどは、法廷における供述の真実性を裏づける決定的な切り札とするつもりであった、というのである。

右の弁解については、警察に対する不信感や取調状況がかりに被告人の述べるとおりだとしても、そのことによって強盗殺人、放火というきわめて重大な犯行をあえて自白する根拠としては乏しく薄弱と考えられるし、被告人が法廷で真実を明らかにすれば疑いは晴れると信じたこともその確実な保証はないのに等しいし、他面被告人が小野田方から強取されたとされているダイヤモンド一点を所持していたこと及びその処分先を明らかにすれば、自己の嫌疑がますます濃厚になることは自明であり、むしろ公判においても被告人が真犯人とされる危険性は一段と高まることは当然自覚したはずであって、その危険を犯してまでも進んで自白をする必要はないし、被告人の前記弁解は、その理由が乏しいように思われる。

しかしながら、被告人の当公判廷(第一一、第一二、第一三、第一五、第一六回)の供述、証人土岐政美、同中島すみ子の各証言によると、被告人は、昭和五〇年五月ころから逮捕された七月三〇日まで、格別の職もなく、女性のところで無為に居候しているという生活状態にあったもので、これに加えて、被告人の外見を気にし格好をつける見栄っ張りな性格と、勝負事を好む性格傾向を考慮すれば、被告人が第一二回公判で述べたように、「窃盗で有罪になり新聞報道される以上、自分の人生はもう終りである、それならいっそのこと強盗殺人、放火も自分がやったことにして大きく報道される方がよい」という、自棄的な心境ないしは人生を賭けるという危険な行為に出たと考えられないこともないのであって、このような心理状態が被告人をして本件犯行にとどまらず、捜査機関から嫌疑を受けた事件については全部認める態度をとらせ、岡山市東山付近の郵便局と、同市清輝橋付近におる各強盗についてまで虚偽の自白をし、結局真犯人でないとして立件されなかったという結果を生じたとみることができよう。このようにみてくると、被告人が自白を飜えさなかった理由も、理解しえないとまでは断じがたいものがある。もっとも、被告人は景山勝俊から前記のように話され、自分が本件の容疑者となっていることを知ったのち、既述のとおり残った宝石四点を埋匿しており、その後逮捕されるまでの間の相当な期間、自分が検挙された場合のことを当然予想し、その対応策を考えていたであろうことは推測に難くない。従って、既述の自白の信用性に対する多くの疑問も、その対応策の結果作られたものでないかと一応疑われるところであるが、それ以上に、然りと断定するまでの資料はないというほかない。

(4) 弁護人との接見について

弁護人が、捜査段階において昭和五〇年八月一日から同年九月七日まで四回にわたり弁護人と接見していることは冒頭に接摘したとおりである。検察官は、被告人がその間弁護人に自己に有利な事情を話した形跡はなく、かえって本件犯行を自供した翌日弁護人と接見した際、弁護人に対し「取調べは全て認めた」「調べは厳しいが、事件は自分がやったことである」と供述していることが明らかであるから、本件犯行についての被告人の自白の信用性を肯定できる旨主張する。

なるほど、被告人の当公判廷(第一三、第一五、第一六回)の供述によると、検察官の主張する右事実を被告人も自認しているが、他方、被告人は、取調の警察官から妻の金銭の差入等を聞かされ、弁護人の言動が警察につつ抜けになっていると思われたことや、接見禁止の処分を受けており誰の言を信じてよいかわからなかったし、また接見した弁護人とも初めてなのではたして信用して全てを話してよいかどうか疑問があり、現在の奥津、佐々木弁護人らにも第一回公判後の昭和五〇年一二月ころになって初めて被告人に有利な事情を話したのである旨述べており、右両弁護人に真実を語ったのは被告人が述べるとおりであると判断されるのであって、被告人の慎重で用心深い性格を考えればむげに信用できないものではない。そうすると、弁護人との接見状況をもって、被告人の自白の信用性を肯定する事由とみることには疑問を持たざるをえない。

(六) まとめ

このように検討してくると、被告人の自白は、犯行前及び犯行後の状況について既に述べたように意識的に虚偽の供述をなしたことを裏付ける客観的状況との明らかな矛盾があり、その故に犯行状況についての自白も同ようではないかと疑われるふしがあり、特に、兇器の棒の存在があいまいとなるのは決定的であるというべく、さらに犯行状況に関する供述内容にも放火の方法、犯行時間、兇器で殴打した際の被害者の体位等本件犯行のきわめて重要な部分に変遷が見受けられるのに、その理由が必ずしも明らかでなく、その他供述内容自体についても、犯行の動機、玄関での問答状況、兇器等について不自然な点があり、かかる事情を総合すると被告人の前記各検面、員面、員作成の昭和五〇年九月一〇日付検証調書抄本の被告人の指示説明部分の自白の信用性はいずれもきわめて低いものといわざるをえない。そこでさらに進んで一応右自白を離れて、本件についての情況証拠を検討し、これによって被告人を本件犯行の犯人となしうるかどうかについて検討を進める。

第四情況証拠についての検討

前記第二「証拠によって認められる事実及び争点」において述べたとおり本件犯行によって強取されたとされている宝石五点を被告人が所持し、うちダイヤモンド一点は被告人が昭和五〇年三月二九日代金二五万円で東洋美術館に売却したこと、残る四点の宝石を被告人が同年六月初ころ千葉市新宿二丁目所在の新宿公園内の土中に埋めて隠したことが明らかである。

被告人は当公判廷において右宝石五点を所持していた理由について、被告人が本件の五日前である昭和四九年一一月一日午後三時ころから四時ころにかけて、小野田方東隣りの前記佐藤宅の通用門から同家・庭に入り、小野田方との境のブロック塀を乗り越え、皮靴を脱いで、小野田方中庭八畳間南の縁側から屋内に入り、廊下伝いに同家一〇畳間寝室に侵入して物色し、鏡台用スツールの中から宝石五点を窃取したものである。被告人はその後、人の気配を感じて侵入した経路を戻って、右佐藤方の植込みに隠れていたところ、たまたま佐藤弘が同人方東南裏口から来て、南側ガラス戸を開けて手提金庫を部屋の中に置いているのを見たので、同人がすぐ立ち去ったあとこれも窃取した旨弁解している。

はたしてそうだとすれば、右宝石五点を被告人が所持していたからといって、それは別の機会に小野田方から窃取したことになる訳であるから、右弁解が合理的な疑いを残さない程度に排斥できるかどうか検討していくことにする。

(一) 小野田方の客観的状況と矛盾しないか

(1) 足跡痕について

証人楠木フミの証言によると、小野田方の板張りの廊下は、同女が昭和四九年一〇月三一日の朝拭き掃除をし、そのうえ同家中庭は、そこを通っている排水の土管が壊れていることもあっていつもじめじめしているので、もし被告人が一一月一日中庭を通って廊下づたいに侵入したというのであれば廊下に足跡がつくはずであるが、一一月二日の朝同女が右廊下を拭き掃除をするに際し、足跡痕その他の異状を認めなかったというのである。

しかしながら、員作成の昭和四九年一二月三日付検証調書添付図面一九図によると、小野田方中庭はわずか東西約三メートル、南北一、五五メートルの長方形であって二、三歩で歩けるうえ、庭石三個が散在し、そのうえを歩くことも可能であるから、庭から廊下に入ったとしてもはたして足跡痕が目につく程鮮明に残るかどうか疑問があり、現に8・23員面によると、被告人は昭和四八年一二月一一日午前二時三〇分ころ、小野田方東側のブロック塀を乗り越え、中庭を歩いて東側洗面所窓から廊下づたいに二階一〇畳間に上り、屋上のベランダから逃げたというのであるが、員作成の同日付実況見分調書によると、足跡について格別触れられておらず、また8・24員面によると、被告人は昭和四九年九月一四日、小野田方西側通路から土足のまま風呂場窓ガラスから侵入し、廊下づたいに一〇畳間寝室に入り、再び侵入した経路を逆戻りして外に逃げたというのであるが、員作成の同日付実況見分調書によると、足跡痕は西側洗面所および同所窓桟に各一個ずつ発見し採取したとあるにとどまり、その他の場所については格別足跡痕について触れられていないのである。

さらに、楠木フミの証言自体、約二年半前の特定の日の出来事に関し断定的な証言をしてかえって不自然さを感じさせるものであるうえ、同証言中には前記員作成の昭和四九年九月一四日付実況見分調書では廊下足跡痕について何ら触れていないのに反して、翌一五日朝掃除をするとき、廊下東端から一〇畳寝室までうっすらと靴の跡が残っていたとか、あるいは被告人は昭和四八年一二月一一日小野田方に土足で侵入しているのに、そのときには翌朝足跡は全くなかった旨供述しているなど矛盾があり、証言自体の信用性はさほど高いものとみることができない。

(2) 施錠について

証人楠木フミの証言によると、同女は小野田米男から戸締りを厳重にするようにいつも注意を受けており、窓やガラス戸は全部錠をしたうえ別に防犯錠をつけて施錠を忘れないように心がけており、特に被告人が一一月一日侵入したとする小野田方中庭に面した廊下のガラス戸三枚は掃除をするときに開ける以外、いつも鍵をしておく習慣になっていた旨供述し、証人小野田米男も同ようの証言をし、一一月一日同家廊下南側ガラス戸から侵入することは不可能であったようにいう。

しかしながら員作成の昭和四九年一二月三日付検証調書によると、昭和四九年一一月六日の小野田方の施錠状態は、侵入可能な窓、戸について無施錠の箇所が四ヶ所あること、同女は右検証の際「八畳間の南側広縁の三枚ガラス戸には内側から差込鍵をするようになっていましたが、ここの鍵はいつもしていなかった」旨指示説明していること、植木フミの員面(昭和四九年一一月一六日付)には「昭和四九年一一月六日、縁側の右ガラス戸は当時天気もよかったし、開けたままにしておいた」とあること、さらに員作成の昭和四九年九月一四日付実況見分調書によると、右ガラス戸三枚は施錠してなかったことが認められることに照らすと、証人楠木フミ、同小野田米男の各証言はその信用性に疑問があり、これら証言を根拠に昭和四九年一一月一日午後三時ころから同四時ころの間右廊下南側のガラス戸が施錠されていたと認定することはできない。

(3) 物色の形跡について

宝石を窃取した際の物色の状況につき、被告人の当公判廷(第五、第一二、第一三、第一五、第一六回)の供述によると、被告人は小野田方一〇畳間のサイドボードや北側飾り棚、小引出しを物色し、元通りにした後スツールから宝石を窃取し再び元通りにしておいた、というのであるが、証人小野田米男の証言、同人の員面(昭和五〇年八月一四日付、二〇日付)、員作成の昭和四九年一二月三日付検証調書によると、小野田米男は昭和四九年一一月一日当時、宝石を宝石箱に入れさらに茶色封筒に入れてスツールの底に置き、そのうえに新聞紙や布切れを入れて蓋をし、スツールのうえにカモフラージュのためパジャマをかけ、また株券等の風呂敷包みが入っていた北側の飾り棚は、観音開きがうまく閉まらないため、取手にひもを巻きつけて開かないようにしてあったので、これに誰かが触れてひもを巻き直すとすぐ気がつくような状態であったが、いずれも何ら異常は認めていないこと、更に員作成の昭和五一年三月二一日付捜査報告書によると警察官が同年一一月一日午後七時ころ小野田方を訪ね、妻征子に対し「隣家の佐藤方に泥棒が入ったが、お宅は異常はないか」と聞いたところ、征子は「うちは今日一日変ったことはなかった」旨答えたことになっており、証人小野田米男の証言によると同人も同日同女から警察官が訪ねてきたことを聞いて同女に異常はなかったかとたづねたのに対し、同女から異常はなかった旨聞き、小野田米男自身も寝室の様子を見たが、格別異常は認めなかったというのである。

しかしながら、証人小野田米男も証言中で認めているように、スツールの中を開けて宝石箱に入っているのを最後に確認したのは、征子が実家の法事に行くため指輪を使った同年一〇月二七日が最後であって、同年一一月一日に確認はしていないし、飾り棚の中に入れていた風呂敷包みの中の株券類等についても確認した訳ではなく、また風呂敷包みに保管しておいた貴重品について正確な被害届が当初提出されていないことなどからすると、小野田米男が細心の注意を払って管理していたというのはそのままは信用できず、右各証拠を根拠に物色の形跡がなかったとするには足りないと判断される。

(4) 留守であったか否か

証人小野田米男、同楠木フミの各証言によると、昭和四九年一一月一日当時、小野田方では以前二、三回盗難にあったことから家を絶対に留守にしないように気をつけており、当日征子は家政婦の楠木フミの居る午前中に買物をすませたはずであって、当日午後三時から四時にかけては在宅したはずだというのである。

なるほど、小野田方が留守でなければ被告人が右時間帯に小野田方で家人に気づかれずに宝石五点を窃取できる可能性は薄くなるであろうと推測される。

しかしながら、この点については被告人の弁解によると犯行時間は大体五、六分ぐらいであったといい、その程度で足りると判断されるのであるから、妻征子が在宅していたとしても気づかなかったかもしれず、また、たまたま所用で家を留守にした可能性も絶無とは言い切れない。証人小野田米男自身も、家を留守にしないようにしていた旨証言する一方、昭和四九年一〇月二八日ころ、同年一一月三日の両日、妻征子とともに外出し家を長時間留守にしていたことを自認しており、前記時間帯に小野田方には家人がいたと認めるに足りず、被告人の弁解を排斥するには不十分である。

(5) 昭和四九年一一月三日に本件宝石があったか

証人小野田米男の証言によると、同人は昭和四九年一一月三日妻征子とともに高松稲荷に参詣した折、同女が和服で盛装し、指輪を二つつけていたのを見た記憶があるが、そのうちの一個の指輪は恐らく本件五点の宝石のうちのいずれかではないかと思うというのである。

しかしながら、証人小野田米男は右証言にあるように、右指輪は征子の持ち物の品なのか本件の宝石のうちの品なのか、また、本件宝石のいずれかとしてどの分なのか、結局わからないというのであって、右証言によって、一一月三日に本件宝石があったと認めるに足りない。

のみならず、員作成の昭和四九年一二月三日付検証調書、員作成の同年一一月六日付実況見分調書によると、妻征子は本件被害当時に同女の持ち物のダイヤモンド指輪、リング指輪をはめていたこと、昭和四九年一一月七日から同月一五日までの検証において、同女の寝室である八畳間からダイヤ、エメラルド、メキシコオパール指輪各一個計三個が発見されており、これらの点から征子は少くとも五個の指輪を持っていたと認められること、また、証人小野田米男の証言、同人の検面(昭和五〇年八月二〇日付)によると、本件五点の宝石はいずれも金融の担保品であって、小野田米男自身が管理しており、もし征子が身につけるときには予め必ず同人に了解を得るようにしていたところ、同人は昭和四九年一一月三日ころ格別征子から指輪を持ち出すことについて了解を求められた記憶がないということも合わせて考えれば、同日征子が高松稲荷の参詣に際し身につけた宝石は、本件宝石と無関係のように思われる。

(6) 本件犯行後の検証の結果について

員作成の昭和四九年一二月三日付検証調書(特に同調書添付図面第一八図、添付写真二三九ないし二四二)によると、宝石の入っていたスツールの蓋が開けられ、中蓋が除かれ、右スツールから北へ約一メートル離れたところに宝石箱が蓋の開いたまま無造作に投げ捨てられていたことが認められる。検察官は右状況を素直に見れば、被告人が所持していた宝石類は、本件犯行の際強取されたとみるのが最も自然であると主張する。確かに右宝石箱の状況からすると、そのようにも考えられるが、他方右検証調書によると、本件犯行の犯人は、小野田方一階の殆んど全室の引き出し、鏡台等を引き抜いたりして家財を散乱させ、くまなく物色していることが明らかであるから、宝石箱を探し当てて開いてみたものの、宝石五点を発見できないまま箱を投げたことも考えられないではないのであって、宝石箱の発見時の状況によって、本件犯行の際宝石が強取されたと見ることはできない。

(二) 被告人の弁解の内容に不自然さはないか。

被告人の弁解の内容には不自然な点がないとはいえない。

例えば、(1)スツールの状況等について被告人作成の弁護人宛昭和五一年四月一〇日付書簡、当公判廷(第五、第一二、第一三、第一六回)の供述によると、「被告人は昭和四九年九月に小野田方に入った時目にしていたスツールを開けると箱が入っており、中に宝石があった。スツールの中に宝石箱の他に何があったか、スツールのうえにカバーやパジャマがあったかについては記憶がない。」というのであるが、証人小野田米男の証言、同人の員面(昭和五〇年八月一四日付、同月二〇日付)、員作成の昭和四九年一二月三日付検証調書によると、小野田米男は既述のとおり、昭和四九年一一月一日当時、宝石を入れた宝石箱を茶封筒に入れスツールの底に置き、布切、新聞紙等を重ねて中蓋、上蓋を閉め、そのうえに偽装のため空色の寝巻と紺色のガウンをかけていたことが認められるのであり、被告人の弁解は余りにも簡単で具体性に欠け、スツール内の布切れや宝石箱を入れていた茶封筒など当然記憶に残ると思われることについて記憶がないといい、特に続いて行った隣家の佐藤方に対する窃取状況については、至って具体的に鮮明な記憶に基づいて供述していることに比べても被告人の弁解が真実体験したことに基づいて供述していないか、もしくは真実をかくしているのではないかとの疑問を感じるところである。また(2)右スツール以外の他の物色状況についても、証人小野田米男の証言、員作成の昭和四九年一二月三日付検証調書によると、小野田方一〇畳間北側飾棚上段は観音開き戸になっており、小野田米男が昭和四九年一一月一日当時盗難等に備えて、右開き戸に他人が触れたときにはすぐに気づくように右開き戸の両把手にわざわざ紐を巻いていたことが窺えるのに、被告人は当公判廷(第一六回)において、被告人が昭和四九年一一月一日当時観音開き戸を開けて物色したが、紐は全くなかったというのであり、この点も同ようの疑問を感じるところである。

しかし、右のような不自然さ、疑いがあるからといって、被告人の供述を嘘であるとまでは断じがたい。

(三) 被告人の弁解の信用性

被告人の当公判廷(第五、第一三、第一六回)における供述、被告人作成の弁護人宛昭和五一年四月一〇日付書簡によると、被告人は本件宝石五点を窃取した直後、小野田方東側ブロック塀を乗り越えて逃げようとしたとき、人の気配を感じて佐藤方の植込みに隠れていたところ、たまたま佐藤弘が同人方東南裏口から手提金庫を下げて来て、同人方母屋南側ガラス戸を開けてこれを部屋の中に置き、再び裏口へ戻るのを見て、同家が留守と考え右手提金庫を窃取したという。

ところで当裁判所が被告人の右弁解に基づいて岡山東警察署に佐藤弘作成の被害届等の提出を求め、押収した符21ないし27によると、佐藤弘方では昭和四九年一一月一日午後三時から午後四時ころまでの間、同人方表六畳間南窓側に置いていた手提金庫が盗まれていることが認められ、被害の内容は被告人の供述と一致しており、被告人の弁解は信用性に富むといえる。

しかも、佐藤弘が被害にあったと考えられるのは右のとおりわずか一時間であり、そのうえ右手提金庫を置いていた同人方表中六畳間南窓側は、同人方周囲が高さ約二メートルのブロック塀で囲まれているため、家の外から窺い知ることは到底不可能であり、また同人方屋内に侵入した様子がなく他に物色された状況もないことを考慮すると、同人方手提金庫を窃取した犯人すなわち被告人は、右手提金庫の存在を認識しうる同人方庭等にいたに違いないというべきである。

そうすると、検察官が主張するように、被告人の弁解は右佐藤方の窃盗にからめた言い逃れにすぎないとみることには疑問があり、むしろ被告人が佐藤弘方の手提金庫を窃取したのは、その前に小野田方から宝石を窃取したのち、東側ブロック塀を乗り越えて佐藤方庭から逃げようとした際、人の気配を感じて植込みに隠れていたところ、たまたま同人が右手提金庫を置いていくのを見たからだという弁解の方が自然で信用できるように思われる。

(四) まとめ

以上のとおり、被告人が所持していた本件宝石は、一一月一日窃取したものであるという被告人の弁解について、足跡、施錠、物色の形跡、一一月一日以降に本件宝石があったか否か等の客観的状況との矛盾について検討したが、ただちに被告人の弁解を排斥することはできず、また被告人の弁解内容に若干の不自然さはあるが、その点も弁解の一部が十分信用に値することもあわせて考えれば、いまだ右弁解を排斥するに足りない。

第五結論

以上多角的に検討したとおり、本件強盗殺人、現住建造物等放火の公訴事実は、被告人と犯行とを結びつける証拠は被告人の自白とその所持していた宝石五点であるが、自白についてはその信用性について供述内容と客観的状況との間に明らかな矛盾があって、被告人が意識的に虚偽の供述をしたことが認められること、そのため兇器とされている棒の存在が怪しまれることとなったこと、犯行の状況その他について供述内容の変転があり、しかも兇器の性状、犯行の動機等重要な点に供述内容自体不自然に思われる点が多いこと、また自白に犯人のみが知るいわゆる秘密の暴露が乏しいことなどの点を考慮すると、その信用性について多くの疑問を持たざるを得ず、また被告人が所持していた宝石五点については、昭和四九年一一月一日小野田方から窃取した疑いがあり、この疑いがただちに排斥できないのであって、このほかに被告人が犯人であることを証明する証拠は格別ないから、被告人が本件犯行の真犯人であると断ずるまでの確たる心証を形成せしめるに至らなかったものである。

その二、大倉保正方居宅等に対する現住建造物等放火について

第一本件公訴事実

本件公訴事実は、別紙公訴事実(二)のとおりである。

第二証拠によって認められる事実及び争点

当公判廷において取り調べた関係各証拠を総合すると、昭和四九年三月二三日午前四時五〇分ころ、岡山市二日市町二五ないし二八番地所在の大倉保正方木造二階建居宅兼工場一階から出火して同建物が全焼したこと、右建物は被告人の祖父大倉梅造が所有し、同人及び被告人の祖母栄、叔父の大倉保正の家族五名が居住し、祖母の栄は右一階四畳半の部屋で焼死体となって発見されたことが認められる。

ところで、大倉梅造の検面、大倉幸子の検面(昭和五〇年九月一六日付)、員面(昭和四九年三月二三日付)、証人槇尾省三の第九回公判調書中の供述部分、犯罪科学研究所警察技師槇尾省三作成の火災原因調査結果報告書、岡山県警察本部刑事部鑑識課警察技師作成の録音採取報告書、符42によると、本件火事の出火場所は、台所、廊下付近であること、出火の時間は午前四時五〇分ころで、しかも大倉梅造が午前二時ころ寝ていた四畳半の部屋から台所、廊下を通って便所に行ったときまで、同所は全く異状がなかったこと、出火の状況は火の回りが早くたちまち燃えあがっており、ドーンという爆発音が二回したが、右爆発音は台所廊下の棚にあった殺虫剤、パンク修理用の接着剤の二つのスプレー缶の破裂音と思われること、台所のガスの元栓は閉まっており、ガスもれによる出火と考えられないこと、また電気系統に異状がなかったこと、石油ストーブもタンクの灯油が切れていたため使用されておらずその他出火の原因となるものは見当らないこと、を総合すると、本件が何者かの放火による疑いがきわめて濃厚であると思われる。

しかして本件記録によると前述のように被告人は、捜査段階において当初本件犯行を否認していたが、逮捕されてから六日後の昭和五〇年八月五日、小野田方に対する強盗殺人、現住建造物等放火及び判示第一の各詐欺の事実について自白すると同時に本件を自白して以来、その後の捜査段階において一貫して自白を維持し、その結果9・25(二通)、9・27各検面、9・5、9・6、9・7、9・8、9・9、9・10、9・11、9・12各員面が作成されたが、第二回公判期日の起訴状に対する認否において「私は放火行為をしていません。覚えのないことです」と述べ、以後は終始本件犯行を否認していることが明らかである。

そして、本件においては、犯行が被告人の所為によるものであることについての証拠としては、被告人の右捜査段階における自白のみである。そこで以下被告人の自白の信用性について検討する。

第三被告人の自白の信用性について

(一) 自白がなされた経緯について

被告人の当公判廷(第一一、第一二、第一五、第一六回)における供述、証人土岐政美の当公判廷における供述、8・5(二通)員面によると、被告人は昭和五〇年七月三〇日詐欺で逮捕されて以来、小野田方における強盗殺人、現住建造物等放火、詐欺、窃盗及び本件の犯人として警察から追及を受けたこと、被告人は当初窃盗関係の事実のみを認め、その他の事実については否認していたが、同年八月五日になって、小野田方における強盗殺人、現住建造物等放火を自白したのに続いて、本件放火、詐欺の概略を自白したことが認められる。そして小野田方における強盗殺人、現住建造物等放火の自白の信用性には種々の疑問があり、被告人が捜査官に対して積極的に迎合し、意識的に虚偽を述べ、後日法廷で争うことを決意して取調べに対しては特に抵抗せず、容疑をかけられた事件について一切認めようという態度でなした自白ではないかとの疑惑があることは前述のとおりであるが、本件の自白の信用性についても、自白の経緯が右のように同年八月五日、小野田方における強盗殺人、現住建造物等放火の直後に引き続いてなされたものであること、また証人土岐政美の当公判廷における供述、当裁判所の証人植村忠男に対する尋問調書、受命裁判官の証人利光昇に対する尋問調書によると、本件は警察において被疑者不詳のまま放火被疑事件として捜査継続中であったところ、昭和五〇年八月一二日付査作成の捜査報告によると、昭和五〇年五月一二日ころ本件放火の動機とされている詐欺について、被害者の千代田観光興業社長植村忠男、同社員利光昇から事情を聴取し、その際、被告人が本件当日冷凍えびを千代田観光興業から頭金二〇〇万円の支払と引換えに受取る契約を締結していたところ、当日朝、冷凍えびを持参してきた利光に対し本件に藉口して「頭金二〇〇万円を祖父の家に置いていたが火事にあって燃えたので支払えない」旨述べていること、利光、植村も被告人の右言動につき、かねてから偶然の一致にしてはできすぎて不自然であると感じ、あるいは被告人が放火したのではないかとかすかな疑いを感じていたことの情報を得ていたこと、などの点からすると捜査官が本件も被告人の犯行によるものとの疑いを抱き追及したことは想像に難くないから、被告人が当公判廷(第一二回)で「逮捕直後から本件についても捜査官から『まことに都合のいいように火事があったんだな、本件放火もお前がやったんだろう』と追及を受けて、小野田方における強盗殺人、放火と同じような心理状態に落ち入ってそのまま虚偽の自白をした」旨の供述もむげには排斥できない。

(二) 自白の内容に、犯人でなければ知りえない特殊な状況が含まれているか。

(1) 9・25(後)検面、9・5、9・10各員面によると、被告人は放火の際マッチで点火をした状況について「灯油を撒き終ってからズボン左側ポケットからマッチを取出し、最初マッチの軸二本をそろえて擦って、廊下に撒いた灯油につけたが、ジュンと音がして消えた。それで二度目はマッチの軸五本位をかためて擦り、軸木が約三分の一位燃え火力が強くなったところで廊下に撒いている灯油のうえにそっと重ねて燃やすと、今度は灯油に火がつきかなりの速さで廊下に燃え拡がった」旨自白しているのであって、いかにも真犯人らしい迫真力のある説明をしている。

しかしながら、既に述べたとおり小野田方における強盗殺人、放火の自白の中に、客観的事実と明らかに違う虚構の事実を、きわめて具体的かつ詳細に述べていることや、8・15(前)、8・24検面において小野田方玄関先での征子との問答状況などをそれらしく供述していること、右供述内容にあることもたやすく創作できる余地があることからすると、被告人が実際の体験に基づいて述べたのではなくて、想像して述べたと見る余地が残っていると思われる。

(2) 灯油の所在場所等に関し、9・5、9・7、9・10各員面、9・25検面によると、被告人は本件の前日の昭和四九年三月二二日午前一一時ころ本件犯行を決意し、大倉保正方に下見に行った際、同家六畳間東側の土間に置かれている古い水屋の前付近で、ポリエチレン製の白色の携行缶三、四個を見つけ、そのうちの一個一〇リットル入りの灯油缶の蓋を開けてにおいをかぎ灯油が入っているのを確かめた。右灯油缶には灯油が約三分の一残っていたように思うというのである。そして、第八回公判調書中の証人大倉保正の供述部分、大倉幸子の検面(昭和五〇年九月一六日付)によると、灯油は石油ストーブ用にポリエチレン製容器五、六個(うち一つは二〇リットル入り、その余は一〇リットル入り)に入れて台所廊下東側の作業場の片隅にまとめておいていたこと、灯油が入っていたかどうかはっきりしないが少し残っていたようにも思われることが認められ、被告人の供述どおりであったようである。しかしながら、捜査官が昭和五一年五月中ころには本件の被疑者として被告人を疑っていたと思われることは前述のとおりであり、また8・5(後)員面によると被告人は、昭和五〇年八月五日には、大倉保正方の裏の庭にポリ容器に灯油が入っていたのを調べて、本件犯行に使ったと概略を述べているが、そのことは被告人が同家に出入りするうちに知りうることでもあり、検察官の取調請求証拠目録(三)の中に大倉幸子(昭和五〇年八月一五日付、同年九月三日付)、大倉保正(昭和五〇年八月一二日付、同月一四日付、同月一六日付、同年九月三日付、同月四日付)の各員面があることからすると、右被告人の最初の自供から本件の本格的取調の開始された昭和五〇年九月五日までの間、大倉保正、大倉幸子らに対し、灯油の入ったポリ容器のあった位置、そのポリ容器の形状等につき捜査をなし、捜査官にとっては既にそのことにつき知識を得ていたと考えられ、これを前提に被告人を取調べ、被告人の自白をえたとみる余地がある。しかも、灯油の所在場所、容器の形状などは被告人が大倉保正方に出入りするうちに知りうること、また容易に創作して述べうることと思われるので、灯油の所在場所等に関する被告人の自白が客観的状況と合致することから、ただちに被告人の自白の真実性を裏付けることにはならないといわねばならない。

(3) 8・5(後)、9・5、9・6、9・10、9・12各員面、9・25(後)検面によると、被告人は昭和五〇年八月五日の最初の自白の際に、放火した場所について台所板の間に火をつけたと述べ、その後の捜査段階において一貫してその旨述べているところ、大倉梅造の検面、員作成の昭和四九年三月二四日付実況見分調書、員作成の同月二三日付現場写真撮影報告書によると、本件の出火場所は台所炊事場廊下部分と認められ、右自白と一致するのであるが、右(2)と同ように既に捜査官が知っていた事実であるから、これをもって被告人の自白の真実性を裏付けるに足りない。

(三) 動機に関する自白は納得できるか

被告人の自白によると、放火を思いついたのは賭博資金を捻出するため千代田観光興業から冷凍えびを取込もうとしたが、必要な頭金二〇〇万円の捻出に苦慮したあげく、頭金を支払うことなく冷凍えびを受取るため、頭金二〇〇万円の焼失を仮装しようとしたことが最大の動機であるが、もともと被告人は叔父である大倉保正に対し、同人が八男であるにもかかわらず被告人の父で長男である大倉鉄夫をさしおいて、大倉飲料有限会社の経営の実権を握り、その利潤で勝手に自己名義の不動産を取得しており、また実家である本件家屋に祖父母と同居していたことから反感を持っており、放火によって本件家屋が焼失すれば、右鉄夫が祖父母と同居し大倉飲料の経営も握れるのではないかと考えたことも動機となっているというのである。

そして第二回、第一一回公判調書中の被告人の各供述部分、当裁判所の証人植村忠男に対する尋問調書、受命裁判官の証人利光昇に対する尋問調書、利光昇の検面、池田敬の員面(昭和五〇年八月一日付)、符30ないし35によると、被告人は昭和四九年三月一八日角陣株式会社という名前で千代田観光興業から合計九、四六四キログラム(価格合計一、三一〇万五八〇〇円)の冷凍えびを購入する契約をし、その支払条件は同年三月二三日約半分の冷凍えびを受取ると引換えに頭金二〇〇万円を、その後同年五月五日に六〇〇万円、同年六月五日に二五五万五八〇〇円、七月五日に二五五万円を支払う約束であったこと、被告人は同年三月二二日千代田観光興業社長植村忠男に電話をかけ、同人に対し「頭金二〇〇万円の用意はできたから、明日第一回目の冷凍えびの引渡をしてほしい」旨伝えたが、その際被告人の手元には被告人の当公判廷の供述によっても現金七〇万円しかなく、少なくとも三月二三日までに現金二〇〇万円を用意できる見通しはなかったこと、ついで、被告人は同年三月二三日午前一〇時ころ、冷凍えびを引渡すため県漁連に来た千代田観光興業社員利光昇を本件火災現場に案内して焼跡を見せたうえ、県漁連事務所で同人に対し「頭金二〇〇万円を用意して大倉保正方に置いていたが、焼けたのでお金は払えない」旨虚偽の事実を説明し、続いて植村社長からの電話での問い合わせに対し「頭金が焼けて約束の履行ができないので、取引をするかどうかお任せする。しかし取引ができるなら、今後一層奮起して営業していきたい」旨述べ、利光、植村を誤信させて同年四月一六日頭金二〇〇万円を支払うことにして冷凍えび約三、五六八キログラム(価格合計五五五万八、四〇〇円)の引渡しを受けたこと、更に、被告人は同年三月二五、六日ころ、植村社長からの問い合わせの電話に対し「焼け残った紙幣が七、八〇万円でてきたので交換する」とこれまた虚偽の事実を述べていること、同年四月一七日ころ千代田観光興業において頭金一〇〇万円のみを支払い、もはや冷凍えびの仕入代金を支払う意思もないのに、「東京の金融業者から五〇〇万円借りられる」旨の虚偽の事実を述べて冷凍えび約三、七二〇キログラムを騙取していること(騙取の意思があったことは、冷凍えびの仕入代金は販売代金のうちから返済すると約束し、同年四月一七日に頭金二〇〇万円支払うことになっており、少なくとも当日までに冷凍えびの売上代金のうち即日決済で代金が支払われる県漁連関係の売上代金二一一万六、一〇〇円は支払を受けているのに千代田観光興業には一〇〇万円しか支払わず、資金調達方法につき右のような虚偽の事実を述べていることから明らかである)、被告人が千代田観光興業から買い入れた冷凍えびの代金は一、〇五四万九、二〇〇円に上る多額であるのに右一〇〇万円の支払いがなされたのみであることをそれぞれ認めることができ、これらの事実に照らすと、被告人の動機に関する自白は詳細かつ具体的であることも併せて、一応信ぴょう性を有するようにみえる。

ことに、被告人が頭金二〇〇万円を調達していなかったことは前記のとおりであるから、冷凍えびが着荷した場合、どのように弁解するつもりであったかについて、被告人が当公判廷において供述する点は、必ずしも納得できないことを考慮すると、なおさらであるといえる。

しかしながら、動機についての被告人の自白には、つぎのような疑問がある。

(1) 経済的状況

8・16検面によると、被告人が本件の動機である冷凍えびの取込みを思いついたのは、被告人が昭和四八年一二月ころ久山喜達から姉の不動産を担保にして高利で金を借りてその返済を焦っていたことや、それまでに博奕で二、〇〇〇万円近くも負けていたので取り返そうという気持ちもあって博奕でひともうけしようと考え、その資金を捻出するため思いついたというのである。

しかしながら、被告人の自白(8・16検面)によっても、被告人の昭和四九年三月一八日ころの借金は、右久山からの借入金二〇〇万円、商品仕入先の山路商店に対する買掛金四〇万円の計二四〇万円があるだけであること(この点に関し検察官は計二、〇〇〇万円の賭博上の借金の返済に追われていた旨論告されているが、取調べた証拠中には、右借金の存在を裏づける確証はない)、右久山の借入金は昭和四八年一二月三日に伊勢えびの仕入資金のために借りたもので、久山の査面(昭和五〇年五月一四日付)によると、同四九年四月まで毎月約定どおり利息を払っていることが認められ、高利であるから速やかに返済したい考えではあったとしても、放火を決意するほどその返済に窮していたとは思われないこと、更に、久山喜達の査面(昭和五〇年五月一四日付、同年八月三日付)、岡山地方法務局登記官作成の登記簿謄本及び抄本によると、被告人は昭和四八年一二月一日久山喜達との間で被告人の姉の佐久間綾子所有の土地、建物に極度額四〇〇万円の根抵当権を設定していること、被告人は久山から昭和四八年一二月三日二〇〇万円、続いて昭和四九年五月二日一〇〇万円を借入れていることが認められるので、被告人としては昭和四九年三月二三日当時、久山から少なくとも約一〇〇万円の融資を受けることは可能だったとみることができる。

また門田武久の員面謄本によると、被告人は昭和四九年五月初ころ、同人からえびの営業資金の名目で一〇〇万円借り受けており、右久山、門田の両名はいずれも被告人の博奕仲間であると認められるから、経済的に困窮していたのが事実とすれば、右の融資をしたことはいささか肯けないことといわねばならない。

以上検討したところによれば、被告人の本件当時の経済状況は放火を決意するほど困窮していたか疑問であって、賭博資金の捻出のために本件を敢行することを思いついた旨の被告人の自白はいささか首肯しがたい。

(2) 叔父大倉保正らに対する反感、憎悪があったか。

右自白によると、被告人はもともと叔父の大倉保正に対し前述のような理由から反感、憎悪を持っていたことも本件の動機の一因であるといいながら、このことは本件の直接の動機ではないと述べているうえに、第八回公判調書中の証人大倉保正の供述部分、大倉鉄夫の検面(昭和五〇年九月一六日付)、員面(同月四日付)、大倉龍野の検面、員面、大倉和也の査面(謄本)によると、本件で焼失した大倉保正の居住家屋及びその敷地の岡山市二日市町二五ないし二八番地の土地は、大倉梅造が所有し、銀行の抵当権が設定されていたが、右抵当権が抹消されると同時に梅造から被告人の父鉄夫に贈与することになっており、その旨の公正証書が作成されていること、それについて鉄夫の弟、妹(被告人の叔父、叔母にあたる)らも別に異存はなく、鉄夫が長男でもあり、大倉飲料の経営難の折に二〇〇万円の出資したことからも当然のことだとみていたこと、鉄夫も保正らの叔父たちから冷遇されたことはないこと、被告人も叔父、叔母らの右のような意向を感じとっていたであろうと思われること、そして、被告人の父母は無論、叔父らも一致して被告人が右の動機のもとに本件犯行をしたというのは納得がいかないと思っていることがそれぞれ認められ、これらの点からすると、被告人の前記自白はたやすく首肯できない。

(3) 冷凍えびの処分状況について

右自白によると、被告人は賭博資金の捻出のため、どうしても冷凍えびを取込む必要があったことが最大の動機であるというのであるが、被告人の当公判廷(第一一回)の供述、第一〇回公判調書中の証人姫井誠介の供述部分、阿部倫也、池田敬(同年八月一日付)、景山ミユキ、下原行雄(抄本)の各員面、林昭、林秀夫の各査面、員作成の昭和五〇年八月三日付捜査報告書によると、被告人は昭和四九年三月二三日以降において冷凍えびの販売先を新たに開拓し、昭和四九年四月ころから同年五月一七日ころまでの間、岡山市内の三好野本店ほか四店のレストランなどに、同年三月一六日から六月一一日まで県漁連に、それぞれ販売しており、その販売価格はほぼ仕入値を若干上まわるか同額であって、極端に廉売をした形跡はないことが認められ、被告人が冷凍えびを一括して大量に処分したのは昭和四九年六月四日姫井誠介に対し、仕入代価二八三万二、〇〇〇円相当の冷凍えびを一七四万円の借入金の代物弁済として処分したのが初めてであり、それも当初担保に入れていたのが予定どおり受戻せなかったためやむなく担保流れとして引渡したという事情であることが明らかで、被告人が本件を敢行するほど賭博資金に窮していた旨の自白にいささかそぐわないように思われる。もっとも、県漁連は即日決済であって、同漁連から二一一万六、一〇〇円の代金を受取っていることは前述のとおりであるから、これが賭博資金に廻されたと見る余地がないでもない。

(4) それにしても被告人の自白するような動機によって、かりに放火したとしても、そして頭金二〇〇万円の焼失を装っても、これを相手方が信じて冷凍えびを引渡すことが保証されているわけではなく、取引を中止して品物を持ち帰る可能性もあり、そうなれば被告人は何一つうるところはない訳だし、万一引渡を受けえたとしても頭金二〇〇万円の支払債務は依然として残るのであるから、本件家屋、工場の損失を考えると割に合わないことであるといえるうえ、放火の嫌疑を受ける危険性も当然あるわけであるから、保険金詐欺などの場合はともかく、本件のような取込詐欺の手段として放火を実行することは、その動機づけにおいていささか納得しがたいところがあるのは否みがたい。

また被告人の当公判廷(第一一、第一三、第一六回)の供述、大倉幸子の検面、員面、大倉鉄夫の検面、大倉龍野の検面によると、大倉保正方には本件当時祖父梅造(当時八四歳)、祖母栄(病臥中、当時八三歳)を始め、保正の妻幸子、長女、長男、次男がそれぞれ就寝中であったこと、被告人は祖母栄が居住していたかどうかは別にして、他の者が居住していたことを熟知していたこと、放火すればあるいは保正の家族らが逃げ遅れ死亡することも充分予想できる状態にあったこと、現に祖母栄が焼死していることなどをも併せて考慮すると、それにもかかわらずあえて物心両面の多大の危険を覚悟してなお放火を決意したというには被告人の放火の動機に関する自白は十分納得することができず、自白の信用性が担保されているとみることはできないように思われる。

(四) 自白内容の矛盾、変遷について

被告人の自白内容は大筋において一貫しているようであるが、幾つかの重要な点でなお看過しがたい自白内容の矛盾、変遷がある。

(1) 犯行を思いつく契機について、被告人は当初、昭和四九年三月二二日千代田観光興業から、頭金を用意できたかとの電話を受けて、金はなかったが後へは引けない気持ちで「明日持って来てくれ、金は用意できた」と虚偽の答をしてから、どうにもならなくなって何かよい方法がないかと考えたすえ本件犯行を思いついた旨供述していた(8・5(後)員面)。それが同月二三日の引渡しの日が近づくにつれて頭金を支払わずに冷凍えびを手に入れるための口実を考えているうち、本件犯行を思いつき、決心してから後に、同月二二日午前中被告人の当時の自宅の巌井マンションから千代田観光興業に電話をかけて「明日支払います」といった旨の供述に変わり(8・16検面)、さらに右電話をかけた場所が当時勤めていた県漁連事務所だと思うという供述(9・5、9・9員面、9・25(前)検面)になり微妙に変化している。

(2) 放火した時間及びそれが始業の前か後かに関し、被告人は当初午前四時ころ放火し、その後県漁連に行った旨述べていた(8・5(後)員面)のが、三月二三日朝いつものとおり午前三時に起きて県漁連の事務所に行ったがいつもより二〇分早い午前三時一〇分ころ着き、すぐに大倉保正方に放火して、県漁連の事務所に行った旨述べ(9・5員面)、その後においては午前三時ころ起床し、同三時三〇分ころ県漁連の事務所でゴムの前掛やゴム長靴の作業服に着替えて魚市場に出勤し、いつもと同じように魚市場でせり落ちした商品を手押車で魚市場南端にある貨物自動車まで運搬する作業に従事しながら、一時間ぐらい経った午前四時四〇分ころ、これ以上遅くなって人目についたり、家の者が起床するようになっては困ると思って、手押車を魚市場南端に置いたまま保正方に入り放火した旨の供述に変わっている(9・10員面、9・25(後)検面)。

(3) 灯油の入っていたポリ容器の大きさに関し、被告人は当初約一斗位入るポリ容器であった旨供述していた(8・5(後)員面)のが、後に高さ約四〇センチメートル、幅約三〇センチメートルで約一〇リットルないし一五リットル入りと思うとなり(9・5員面)、ついでたて五〇センチメートル、横四〇センチメートルで把手が中央にあって、出し口は上の角にねじ蓋がついたもので約一〇リットル入る携行用ポリ容器だったという供述に変わっている(9・10員面、9・25(前)検面)。

そして第八回公判調書中の証人大倉保正の供述部分、9・10員面によると、本件犯行当時大倉保正方に置いてあった灯油の入っていたポリ容器は、一〇リットル入りでほぼたて約五〇センチメートル、横約四〇センチメートルの大きさであったように認められる。

このように放火を思いついた契機、犯行時間、特に仕事の前か後か、ポリ容器の大きさ等に関し被告人の自白の内容が変転しているが、これを単に記憶違いや前後の記憶の混乱として簡単に片づけることはできないように思われる。放火を思いついた契機は放火の自白中最も重要な点のひとつであると思われるうえ、虚偽の事実を電話で告げてから放火を思いついたのか、放火を決心してから虚偽の事実を告げたのかではその計画性、行動全体に大きな食い違いがあると思われること、次に犯行時間については単に一、二時間の差異にとどまらず、犯行態様そのものが作業前に放火したか、作業中に放火したかで全く異なってくるうえ、時間についての供述も本件当時、午前三時に自宅を出発し、午前三時三〇分ころ県漁連に出勤するという日常生活を基準にして述べられているので、単に記憶の誤りとして片づけることができないこと、更にポリ容器の大きさに関しても一斗入り(一八リットル入り)から一〇リットル入りと約半分の大きさにかわり、形容量において特殊な変化をしていることに注目する必要があるように思われる。そして、放火を思いついた契機のような内心の動機についてはともかく、その他の客観的に確認できる事実については、いずれも最終的になされた供述の方が符合していることに照らして考えれば、被告人が当公判廷で弁解するように、捜査官から被告人に対し取調の際、客観的事実と矛盾なく説明できるように暗示したり追及したりした結果、供述が変転したのではないかとの疑いが残る。

そうすると、被告人の自白の信用性はこの点においても、滅殺されると言わなければならない。

第四結論

このように被告人の自白の内容を検討すると種々の疑問が残るうえ、本件の自白が昭和五〇年八月五日に、小野田方における強盗殺人、現住建造物等放火の自白と同時になされ、しかも両事件に対する8・5(二通)員面において最も客観的事実との矛盾が大きいこと、小野田方に対する強盗殺人、現住建造物等放火と絡ませて本件の自白がなされたことが窺えること(例えば8・9員面によると、本件から自分の人生が変わり、小野田方の強盗殺人、放火までするようになった、8・15(後)員面、8・25検面によると、小野田方に対し放火しようと思いついたのは、以前犯した本件が発覚していなかったことから放火して犯行を隠滅しようとした、と各供述している)、そして小野田方に対する強盗殺人、現住建造物等放火に関する自白が被告人の迎合と計算のうえに成立って、意識的に虚偽の事実を含めての自白であって、真実性に乏しいものであることは前述のとおりであるから、本件自白についても、被告人が同じような心境、意図から真犯人でないのに本件犯行を認めた可能性もあることが否定できず、また自白の内容に、いわゆる秘密の暴露に当るようなものは全く含まれていないこと、その供述内容に重要な点において看過できない、また合理的な説明のなされない変転があること、動機に関する自白も充分納得できないことなどの諸般の事情を総合すると、被告人の自白が真実であることについて合理的な疑いが残るというべきである。

そして、本件においては被告人が犯人であることを証明するものは被告人の自白を除いては他になにひとつ存しないのである。

その三、まとめ

以上のとおりであって、本件公訴事実のうち昭和五〇年八月二九日付(小野田方における強盗殺人、現住建造物等放火の点)及び同年九月二七日付(大倉保正方に対する現住建造物等放火の点)起訴状記載の各公訴事実については、いずれも被告人と各犯行とを結びつける証拠に種々の疑問があり、被告人が各犯行の真犯人であるとすることについていまだ合理的な疑いを残しているものであって、結局右各公訴事実についてはいずれも犯罪の証明が十分でないとして、刑事訴訟法三三六条後段により無罪の言渡をすることとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官 小島浩 裁判長裁判官谷口貞、裁判官白川清吉はいずれも職務代行を解かれたため、署名押印することができない。裁判官 小島浩)

〈以下省略〉

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